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『冗談は笑いの夢を見るか ~ 冗談とは、笑いとは ~』総括篇


概要

 冗談と笑いについての私の二つの記事を補足、修正した上で、総括します。様々な事例をよく説明し、他説を包摂する統一的な仮説です。是非確かめて下さい。

はじめに

 本論は、冗談と笑いについての私の二つの記事、理論篇補論を前提にしています。適宜参照して下さい。
 補論で書いた通り、笑いが起きた場合(1)、その直前に冗談(A)か冗談かも知れないもの(B)があったと考えます。基本的に、A→1とB→1を説明できればいいのですが、冗談を言ったのに笑いが起きない場合(2)もあり、冗談かも知れないものに対し、笑いが起きない場合もあります。
従って、A→2とB→2も説明する必要があります。

「緊張の緩和」を換言する

 補論を公開した翌日、TVで漫才を見ましたが、TVは特殊です。出演者が視聴者に危害を加えることはありませんから、緊張というほどの緊張はしません。しかし、面白い冗談を聞けば、緩和はしているようです。その後は、暫くして平常の状態に戻り、面白ければ、また緩和していると思います。
 話の内容で緊張させることは、必須不可欠ではないでしょう。好きな芸人さんが面白いことを言うと、安心してしまいましたが、そうした緊張もあるようです。
 さて、緊張も緩和も人間関係におけるものですから、信用度、信頼性と換言することもできると思います。上記の漫才の場合も、緊張が緩和されたと見るより、信用度が増したと見れば、自然です。
 よく言われる通り、信用、信頼が崩れるのは簡単です。面白いことを言い続けていても、次の一回は駄目かも知れないのです。従って、緊張度と考えるより、信用度、信頼性と見た方が、言葉の自然な使い方なのではないでしょうか。
 一方、特に信用度が低い場合は、危険と見做されますから、緊張という見方も自然です。意味は同じなので、使い分ければ良いと思います。

「ああ、そうだった! 忘れてた」

 忘れていたことを思い出した時に笑うことがあります。理論篇では通り過ぎたので、説明しましょう。
 人間は、ある瞬間と次の瞬間で殆ど変化していません。同等と見做し得る瞬間の連続が人間の自己同一性を保証しています。
 しかし、同じ人間(A)なのに、思い出す前(B)と思い出した後(C)では、随分違う気がします。「A=B≠C=A」ということです。
 このあたりの心理は微妙ですが、結局、許容範囲内と思う(思いたい)場合に笑い、そうでない場合には笑わないでしょう。まずいと思って緊張した後、損害が小さい等の理由で緩和、信用という見方でも、同様に信用し直せます。また、たまにはうっかりすることもあると思うなら、自分に好意的です。
 損害が大きい場合は、緊張状態が継続するかも知れず、自分を信用することもできません。

自然と人為

 歴史的には、良いことがあったり、誰かが失敗したりというような自然発生的笑いが先行していると考えられます。補論で、「境界例に際限がない」などと泣き言を書いてしまいましたが、境界例を含めた自然発生的な笑いこそ、本来の笑いでしょう。
 そして、自然発生的笑いの直前には、冗談的なものが潜在しています。この冗談的なものを意図して提示するのが所謂冗談です。
 これらの面白さが笑いを生みます。最初は笑っても、二度目以降に段々笑わなくなるのは、この面白さが陳腐化するからです。反対に、二度目以降でも笑うのは、面白さが残っていて、信用もより深まったということです。 

夜の高速道路を走っていたら・・・

 十代の頃だったと思いますが、十代向けの小説で、次のような話を読みました(記憶による再現です)。
 夜、高速道路を車で走っていたところ、どこから入り込んだのか、黒い子猫が現れました。時速100kmほどで走っているわけですから避けられず、撥ねてしまいます。高速道路なので止まれないまま、残念ながら仕方ないと思って走っていると、何かが後ろから近付いて来ます。それは、先程撥ねた子猫を口にくわえた親猫でした。親猫が物凄い速さで追って来たのです。恐ろしくなって、逃げようと思ったものの、追い付かれてしまい・・・。
 小説を読んでいるだけなので危険はない筈ですが、しかし、もし、この話を読んで緊張するとすれば、理由は何でしょうか。
 私達は、子猫を撥ねてしまうかも知れませんが、時速100km超で親猫に追い掛けられるとは思っていません。この世界はそのようではないと思っています。それが追い掛けられるかも知れないとなると、世界への信頼が崩れます。
 世界への信頼とは、その世界と対峙する自分の能力への信頼です。もし、熊が頻繁に現れても、蚊等と同程度の容易さで退けられれば、緊張することはありません。また、このような話を真剣にする人がいれば、その人の異常さに対する緊張も生じます。
 更に、ある冗談で自分が笑えるかどうかという緊張もある筈です。
 さて、親猫に追い付かれたその結末は、よく見ると、クロネコ・・・。いや、やめておきましょう。

緊張の緩和は笑いを「生む」

 何か面白いことを言った人や、自分の冗談理解力への信用度が増したり、ある人が危険でないと分かったり、自分の危険への対応能力が信じられたり、これらが緊張の緩和です。
 しかし、これだけで大笑いするでしょうか。どれも、安心する、安堵するようなことです。信用度の変化や、切り抜けた危険が大きかったりしても、腹を抱えて笑うとは思えません。
 例えば、考案者が複数人で、誰の冗談か分からないもの(つまらないものを多めに混ぜる)を複数代読される場合はどうでしょう。面白ければ笑うかも知れませんが、不安な状態ではないでしょうか。考案者や選考者、代読者のだれに好意を向けたものか分かりにくく、信用しにくいようです。
 更に、サクラがつまらない冗談で笑い、面白い冗談で笑わないと、自分を信じにくくなり、笑いにくくなるでしょう。
 危険が偶然去る場合も同様です。危険は去っていますが、偶然であるため、相手も自分も信用できず、好意の対象もありません。笑えないでしょう。
 反対に、十分尊敬する人物が、(自分を含む)誰かを認めたり、褒めれたりすれば、信用度が上がり、笑顔になるでしょう。但し、その誰かに対し好意的な場合です。
 このように考えると、(周りに合わせて笑うことはあるにせよ)自分への信用は不可欠のようです。
 つまり、緊張の緩和がなければ、笑えないということですが、緊張の緩和は、笑いを「生む」だけだということです。大きくするのは別の要素だと考えられます。
 尚、危険が偶然去る場合、自分の幸運を信じれば笑い、信じなければ笑いません。

好意だけでは笑わない

 好意はどうでしょうか。好意とは、対象(この場合は人間)を肯定しようとする精神の姿勢、構えです。
 しかし、好意を向けただけで、向けた当人(冗談を聞いた方)が笑うかというと、そうでもないでしょう。面白くない冗談は、やはり、面白くないからです。
 好意を向けられた方も、何らかの表現がなければ、好意を向けられたとは分かりません。
 好意だけで笑いは起きず、緊張の緩和が必要なのです。

「ほう ほう ほたる・・・プチッ」

 二人組の芸人、ハリセンボンさんがまだ無名の頃、『イロモネア』というTV番組に出演したのを見ました。
 そこで、「ほう ほう ほたる・・・プチッ」という所謂一発ギャグを披露したのですが、受けませんでした。
 しかし、暫くして知名度が上がり、翌年の『イロモネア』で同じギャグを見せたところ、今度は受けたのです。
 私は、当時、初見で受けなかったことが不満だったのですが、客席の人達は、無名の芸人さんに好意を向けにくく、信用もしにくかったのではないでしょうか。
 上記の理屈からはそのように説明できます。

冗談と笑いの機序

 冗談があってから、笑いが起きるまではどのような過程になっているのでしょうか。誰かが典型的な冗談を言ったとして考えます。
 先ず、冗談が示されます。聞いた人間はこれを理解します。理解力とは能力であり、様々な要素が関係します。情報、知識、経験、技術、生理、人間関係等があり、他にも重要な要素があります。
 ここで好意が働きます。冗談を聞く前から好意的か否か決めている場合もあると思いますが、好意は、ここまでの経緯によって生まれ、正から負まであり得ます。負の場合は否定的です。好意の度合が、正なら笑い、負なら笑わないことになります。
 好意度は笑いの大きさではなく、冗談の解釈の質を決めると思われます。好意が弱ければ、聞き流すに近くなり、強ければ深読みします。
 そして、話者に好意が向けられます。
 受け手側の緩和度は冗談(と自分の笑い方)の評価により、話者側の緩和度は、この笑いの主観的評価によるでしょう。

優越感と解放感は笑いの大きさを決める

 ここでは、高下保幸氏の論文『ユーモアの心理学的理論と研究課題』柴原直樹氏の論文『笑いの発生メカニズム』を参照しました。
 笑いを大きくする要因ですが、それは「優越の理論」です。私は、優越感を単純に考えます。道徳的、倫理的に問題でも、人間は他人を(自分も)嘲うことがあるのです。
 例えば、大量媒体は、自分達の正義感で悪いと決め付けた人を徹底的に叩きます。この時、悦に入っているのは間違いありません。
 他の人達が分からない冗談を一人だけ分かる場合も笑いは大きくなります。尊敬する人が失敗しても笑わないのは、ゼロ(「冗談」と見做していない)に優越感を「掛け算」するからではないでしょうか。嫌な奴でも、そうしたことで嘲る自分を良しとしなければ(つまり好意的でない)、笑いません。
 解放(開放、放出)感も単純に解釈します。我慢していたり、抑圧されていたりしたものが解放されると気持ちがいいでしょう。ただ、笑うのは自他に好意的な時だけです。
 更に、自然発生的冗談の希少性、意図的冗談での「よく思い付いた、よく発見したものだ」という感動も笑いを大きくするでしょう。
 他の何らかの快についても同じです。接待で大きめに笑うのは、その方が利益(これも快)になるからです。
 「緊張の緩和×(快a+快b+…)」で、大笑いを説明できるでしょう(理論篇、補論から修正した部分です)。
 例えば、比較的反応の大きい「くすぐり」は、唐辛子やジェット・コースターと同じで、刺激を快として楽しんでいると思われます。
 また、様々な要素が笑いの質に影響します。恐怖で引きつり、恥ずかしさで照れ、歌劇で泣きながら、という具合です。

ズレの理論も無害な逸脱理論も正しい

 「ズレの理論」は、予測したことと実際に違いがある場合、笑いが起きるというものです(吉田拓広氏の論文『笑いの理論の証明と追究』)。ベルクソンやモリオールは、これを基に精緻化しているようです。
 「無害な逸脱理論」は、「ズレの理論」に加えて、無害であるという条件を加えたものです(鵜子修司氏と成瀬翔氏の共著論文『無害な逸脱理論を再考する』)。
 表現に違いはあるものの、共通する部分は、「A=B≠C=A」と解釈できます。
 上記の理論は、部分的に当て嵌まるものの、例外があるという評価です。
しかし、私は、「冗談と笑いの範囲の決め方(A→1/2とB→1/2)」と、「好意」、「緊張の緩和」、「笑いの大きさ」の各要素を考えました。
つまり、「ズレの理論」も「無害な逸脱理論」も、この枠組みへ(適切に)導入すれば成立するということです。
冗談と笑いについての統一的な仮説を示し得たと思います。
 尚、上記の鵜子氏と成瀬氏の共著論文で引かれた森喜朗元首相の事例は、非英語圏の(特に)有色人種に対する差別的冗談であり、事実ではありません(通常、日本の首相は日本語で話し、相手側で訳す)。注で否定されていますが、それなら他の例にした方が良いでしょう。

冗談と笑いの目的

 冗談と笑いの目的は、自分自身を含む人間関係の改善(緊張の緩和)だと考えます。
 それからすると、漫才やコント、落語等は抽象的な表現行為です。
音楽等も、元々は、宗教との関係が強かったようですが、今は世俗化しています(但し、例えば、「恋愛」という宗教的なものに捧げられているという解釈もあり得ます)。
 従って、冗談や笑いが抽象化、芸術化するのも不思議ではありません。音楽にもコンクールがあります。
 冗談は笑いを夢見ているでしょう。

四要素統合仮説

 二十年ほど前、三日間ばかり考えて思い付いた(ちなみに、この時は枝雀説を重視していませんでした)ことを note で公開しようとして、改めて考えました。公開するとなると、いい加減な内容にはできません。書きながら思い付いたことも色々あります。公開後も刺激を受けました。これが公開の効果で、note さんに感謝します。
 折角なので、私の仮説に名前を付けます。
「冗談と笑いの範囲の決め方(A→1/2とB→1/2)」を基盤に、「A=B≠C=A」、「好意」、「緊張の緩和」、「笑いの大きさ」の要素があるので、「四要素統合仮説」です。
 冗談と笑いについての三本の記事を含め、私の記事は、既存の説を紹介するものではありません。私が考えた「新説」を世に問うものです。読んだ人は、「こういうことを書いているけれど、本当か?」と思うでしょう。私も全く同じで、常に思っています。
 後は、読者の皆さんの厳しい検証に委ねます。

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