宗教とは何か ~ 宗教はダイエット ~
概要
宗教論です。信じる、信仰、世界観、人間観、祈り、信教の自由等を論点に、人間存在の一側面を示します。
信じるということ
宗教が減量(ダイエット)とは次のような意味です。
体重は一日では減りません。健康的に大きく減らそうとすれば、数か月から年体位の時間が必要です。しかし、ある減量の方法を試しても、成功するかどうかは分かりません。成否が分からないまま、数か月から年単位で、その方法を続けなければならないわけです。
つまり、ある取り組みを一定の期間維持するという精神の姿勢、構えが信じるということです。
また、この定義からすると、信じる対象に制限は無さそうですから、成否を確かめられない死後の救済等も信じることが出来てしまいます。
信じる対象によって、単に信じることと、「信仰」を区別できるでしょうか。
例えば、結果が判明するのに百年ほど掛かるような政策があるとします。この政策の立案者は、その成否を確かめられません。すると、成否を確かめられないのに信じなければならなくなります。精神の姿勢、構えとしては死後の救済と同じです。
信じる対象によって、宗教と非宗教を区別することは難しいでしょう。
減量の場合、数か月も経って、体重が全く減っていなければ、ほとんどの人は止めます。これは、単に信じている(いた)だけの状態です。
しかし、美しさが目的の場合はどうでしょうか。現状に不満でも、もう少し体重が減ったら、綺麗になれるかも知れないのです。体重に比べ、美しさは成否が分かりにくいので、こうした危険な考え方に陥る可能性もあります。
何でも宗教になり得るということです。
キリスト教徒か、クリスチャンか
「クリスチャン(キリスト者)」という言葉があります。これは「キリスト教徒」とは意味が少し違います。クリスチャンとは、(道徳的な面は置くとして)所謂「キリスト教」を歴史的事実、または将来起こる「事実のようなもの」として認識している人達の自称です。つまり、クリスチャンは、所謂「キリスト教」を単に「事実のようなもの」と思っているだけで、宗教とは思っていないのです。
他方で、最後の審判などある筈もないし、イエスすら存在しなかったのではないかと思っている人達もいます。
後者のような人達が前者を「キリスト教徒」と呼び、キリスト教を宗教と思っているのです。
これは、どの「宗教」でも同じです。それは当然で、最後の審判は来ないと思っているなら、教えを信じていないことになります。信じていないなら、前者ではなく後者です。
しかし、実態は、イエスの実在を疑っていないものの、最後の審判を信じていない人等、縦横で無段階に分布しているでしょう。
開祖は問い掛ける
当たり前のことですが、人間は死にます。「宗教」の開祖も例外の筈はなく、百年ほどしか生きられません。本論は宗教について考えているわけですが、私の宗教についての見方も変遷して来ています。今後も変わるでしょう。「宗教」も、開祖が死んでいるから確定しているだけで、もう少し長く生きていれば、教えは更新されたかも知れないということです。
その意味で、開祖は問い掛けているのです。表現としては断言もあるわけですが、生きていれば、対話もしたでしょうし、その結果の撤回や修正、より高度な見解に到達することもあるでしょう。
「預言」(絶対的存在の言葉)という考え方もありますが、これも、「絶対的な言葉が存在すると考えたらどうか」という問い掛けに過ぎないのです。反対に、絶対化しなければならない理由があるのでしょうか。そうは思えません。
しかし、実際には、教えを絶対化=信仰している事例が多々あります。それが宗教です。本来、絶対でない筈のものを絶対化すると宗教になるのです。
宗教は何を目的にしているか
宗教は、世界観としての世界像と、人間観としての人間像を提示します。世界観と人間観は表裏一体です。
世界の捉え方の具体例である世界像を示し、その中で生きるための人間観、その具体例である理想的人間像を示します。
減量の場合、一般的な世界像に減量の方法が付加され、適正体重の範囲で健康的に活き活き暮らす人間像、というところでしょうか。
開祖の言行録があるような宗教は、概ね、開祖のような人物になることを目指していると考えられるでしょう。
宗教においては、世界観や人間観への理解が限定的であるため、具体像を絶対視している例が見受けられます。天動説や、近々地震が起きるというような「予言」、食べ物についての禁忌等です。こうしたことは社会的に摩擦を生みます。
人間像においては効率性が重要です。その人間像を目指して、それなりの期間努力した結果が、社会的に有害な人ばかりだとしたら困ります。全員が理想的人間になれなくても、その宗教を信じていない集団と比べ、より良い人間が多くなければ、非効率的です。
そして、本来、理想的人間像が、最高到達点である必要はありません。天才の代名詞、アインシュタインの知能を機械学習で再現するという話もありますが、人工知能がアインシュタインより賢くても不都合はないですし、その方が有用です。
人間として向上できることとその効率が重要で、理想的人物像は成長途上にある一つの手本であり、その宗教の有効性の実例と解釈できるでしょう。
理想的社会像は危険
社会像を提示する宗教もあります。理想的社会像は、実例でない場合、相当な注意が必要です。
自然発生的な宗教は社会に根差しているため、大きな問題にはなりにくいでしょう。一方、開祖がいるような宗教の歴史は短いです。二千年でもまだ新興宗教です。
宗派対立が問題になっている国家や社会もありますが、一つの宗教で覆えば解決するというわけではありません。新興宗教は人工的であり、必ず社会と対立します。それを解決するのは時間、歴史です。
社会を安定させるのは歴史であって、宗教そのものではありません。宗教は歴史の代わりにはならないのです。
私達は常に祈っている
人間は、自分達の行為の成否を事前に知ることが出来ません。経済政策や会社の事業、個人の仕事から、近所への買い物、全てそうです。歩いているだけでも、躓き、転んでしまいます。
人間は過去に学び、それを応用、実践しますが、次の一回の成功は保証されていません。従って、人間は常に成功を祈ります。「転びませんように」と祈りながら歩いているのです。歩くという行為が即ち祈りなのです。
人間は行為する存在であり、その行為は全て祈りです。人間は祈る者だと考えられるでしょう。
しかし、人は宗教の施設へ行って、「祈って」います。私見ですが、これは、常日頃、本当に祈っているかどうか反省していると解釈できるでしょう。本当に祈っているか、つまり、誠実に行為しているかを反省する機会だということです。
神社には御神体がありますが、これは鏡であることが多いそうです。私は、これを知った時、随分と感じ入りました。鏡ですから、正に我が身を振り返るということです。私は、かなり後の時代になって同じことを考えたのかも知れません。
教祖は教義を信じているか
金銭等の利益を集めることが目的化したような宗教の場合、教祖は教義を信じているでしょうか。私は、ある程度信じていると見ています。
減量商品を例にすれば、核になる要素としての減量効果(1)、絶対必要ではない入れ替え可能な要素(2)、所謂ブランドとして価格に上乗せしている部分(3)、があるでしょう。
詐欺的宗教は3の部分が極端に大きいわけですが、1の効果の部分が皆無の場合、信徒が入って来ません。先祖供養と体重減に因果関係がなくても、墓参りの後の体重減という相関関係さえあれば十分です。従って、教祖本人も1の部分は(主観的な現象として)信じているか、当初信じていた筈です。
詐欺的ではない、一般の宗教ですが、構成は同じです。1として、現世での行いにより、死後、天国へ行けるかどうか決まるという教えがある場合、布教時の開祖は死んでさえいないので、根拠がありません。その教えによって、信徒の生活が改まれば、結構なことですが、恐らくは開祖こそ、この核の部分を絶対的に信じているでしょう。
2は柔軟性です。ある人には「積極的に」と言い、別の人には「慎重に」と、一見矛盾することを言ったりもします。
3は、教祖本人が想定しているかどうか不明な部分、周りからの期待や所謂カリスマ性という意味、射程の長さです。
信徒の数の多い宗教、長く続く宗教は色々な意味で利益を提供しています。この意味の「規模」と宗教の水準は必ずしも比例するわけではありませんが、単なる詐欺的宗教はあまり大きくならないでしょう。
信教の自由は必要か
減量の成否はどのように分かるでしょうか。それは時間の経過によってです。時間だけが物事の成否を判断できます。数学は証明されれば決着ですが、一般の社会は違います。政治家にも役人にも有識者にも大量媒体にも多数決にも、未来は分かりません。
従って、一見不可解な何かがあっても、否定することには慎重でなければなりません。しかし、明らかに利害が対立することはあり、現在進行中の問題もあるでしょう。
宗教の歴史は、この対立の歴史でもあります。解決は簡単ではなく、大人しくなるまでには時間も手間も掛かります。
宗教が本質的に問い掛けであるとすれば、正しいことも間違っていることもあり得ます。信じる自由は信じない自由であり、利益に期待できなくなれば、やめるのは当然です。
改宗や棄教を(実質的に)禁じる宗教もありますが、私は反対です。子供が親と同じ宗教になる教義も、改宗、棄教できれば、問題ないのです。
権利が、意に沿わない侵害から守られることを意味するとすれば、信教の自由は、信仰も棄教も守らなくてはなりません。
改宗、棄教への妨害行為を違法化することは、理屈として十分あり得ると思います。具体的には、国家と宗教の力関係で決まるでしょう。
一人一「宗教」
神社へ初詣に行き、結婚式がキリスト教の教会、葬式は仏教という人も多いようです。日本人は無宗教だからと解釈することもできますが、複数の宗教を編集していると考えることもできます。世界観や人間観は一人一人が形成するものと考えれば、これは当然です。
宗教が三つでも、一つでも、ゼロでも同じことです。減量も、いいところ取りあり、自己流ありです。
自らの世界観と人間観という成否の分からない問い掛けを試し、祈る存在。それが「宗教」の面から見た人間観です。
附記
是非、気軽にコメントして下さい。
追記
本記事を公開後に、「宗教はダイエット」で検索したところ、このブログ(?)が見付かりました。
私は、可能性として例にしただけですが、こちらは具体的です。まさか同じことを考えている人がいるとは思いませんでした。
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