チェックメイト
チェックメイト
それまで忘れていた。あのサークルのことを。チェック柄のジャケットを着た人たちで構成されるサークル。その名もチェックメイト。思い出したのは、たまたま電車の中で、グレーのチェック柄のジャケットを着たふたりの女性が横に並んで座っているのを見かけたからだ。あれから二十年以上が経つ。
チェックサークルがあるのを知ったのは大学一年の秋。確か九月ごろだったと思う。チェックのジャケットを着てキャンパス内を歩いていると、女性に声を掛けられた。彼女もまた、チェック柄のジャケットを着ていたのだ。それもただのチェックではない。それまで見たことのないほど均整の取れたチェック柄だった。
「高そうなジャケットですね」
「これね、非売品なの。あなたのジャケットもとても素敵だと思うわ」
自分のジャケットについて褒められたのはそれが初めてだったから、とてもうれしくなった。僕より年上に見えたからだったかもしれない。
「ああ、これは、高校生の時に買ったジャケットなんだ」
「もし、よかったら私たちのサークルに来ない?」
サークル名はチェックメイト checkmate。入会条件はチェック柄のジャケットを着ることだった。風変わりなサークルにとても興味をひかれた。ただ、入会には代表の面接が必要だということで、少しばかり緊張してしまった。部活やサークルが利用している通称サークル棟の一室に案内されると、代表もまた同じ柄のジャケットを着ていた。
「それは、サークルの皆が着ているんですか?」
「このジャケットに興味があるのかい?」
「ええ。今までに、そんなに均整の取れたチェック柄を見たことないですから」
代表と彼女は互いに顔を見合わせるとほほ笑んだ。
「このジャケットはね。皆が着られるわけじゃないんだ。ふさわしい人が着ることができる」
「選ばれた人ってことですか」
そう言うと、代表の男は笑った。
「そこまでの深い意味はないんだよ」
「みんないろんな色のジャケットを着ているの。希望者がこの色のジャケットを着ているだけ」
代表は四年生の男で、法学部所属だった。僕を案内した女性は尾崎杏奈(おざきあんな)という名前の同学年で、国際関係学部に所属している。
「君は、見る目があるな」代表は言った。
「このサークルはどういった活動をやっているんです?」
「特に決まりはないさ」
それまで、特に気に留めていなかったのだけれど、窓からキャンパス内を見渡すと、チェック柄のジャケットを着ている学生が結構いた。
「あれは、みなサークルの人?」
「半分くらいはそう」
「このサークルに似たサークルはほかにもあるんですか?」
「いや、このサークルがあるのはうちの大学だけさ」
代表は誇らしげにほほ笑んだ。
「十一月に全体会があるから、それまでに決めてくれると言い」
そうして、正式なメンバーとしてサークルに加入するまでの間、尾崎杏奈と行動を共にすることが多くなった。ご飯を食べたり、時には映画を見たりした。入学後、ほとんど一人で行動していたから、ようやく大学生らしい生活を送っているような気になった。彼女は、たくさんのチェック柄のサンプルを持っていた。世の中にはいろんなチェック柄がたくさんあった。ギンガムチェック、バーバリーチェック、アーガイルチェック。見ているだけで心がうきうきした。それまでチェック柄に気を取られて気が付かなかったのだけれど、尾崎はとても美人だった。気が付けば、チェック柄だけでなく尾崎の表情を眺めるようになっていた。一方の尾崎は、そんな僕を何とも思っていないようだった。
今振り返ると、正式に入会するまでの、尾崎と過ごした二か月の間がもっとも楽しい時期だったように思う。その間、これといって変わっているようなところは一つも思いあたらなかった。キャンパスのいたるところにカラフルなチェック柄を着たメンバーがたくさんいるのに気が付いたくらいだ。
十一月の半ば頃、一年に一度行われるチェックメイトの全体会が行われた。六号棟の一室を借りた。サークル活動が行われている部屋に入ると、三百人ものメンバーが集まっていた。全員がチェック柄のジャケットを着ている様は壮観だ。メンバーはいくつかのグループに分かれていて、その年に行った活動について報告していた。そのほとんどが他愛のないものばかりだった。
それぞれのグループからの報告が終わると、皆次々に席を立ちあがりどこかへと歩き始めた。
「外苑前に行くの」尾崎が言った。
「皆で外苑前の並木通りを歩くのが恒例行事なんだ」代表が言った。
僕らは山手線で渋谷に乗り、そこから銀座線に乗り換えて表参道で降りた。
「少し歩きましょう」
外苑前まで歩くことになった。バラエティに富んだチェック柄のジャケットを着た、三百人もの男女が道を歩くのを見るのはえもいわれぬ快感だった。そして、イチョウ並木の下を全員で何十分もかけて歩いた。銀杏並木に会うのはチェックだけだ。
そうして、僕は入会することに決めた。入会する旨を告げると、代表の男は落ち着かない様子で言った。
「君は運がいいよ。ちょうど、来週、イギリスから人が来るからその時まで待ってほしいんだ」
「イギリス?」
「そう。チェックと言えばイギリスだろ?我々のチェックメイトの権威が来るんだよ」
「国際交流ということですか?」
「ああ、そんなもんだよ。このサークルはね、チェックメイトの日本支部ってところかな」
権威というのがどういうことなのか想像もつかなかったが、何はともあれ正式に入会が決まった。
次の日、同じ授業を取っていた尾崎が、授業の終わりに紙袋を持って僕のもとへやってきた。
「はい。これ。代表があなたに、って」
袋に入っていたジャケットを差し出した。尾崎も着ているグレーのジャケットだ。何度見ても素晴らしい。
「着てもいいかな?」
「ええ、もちろん」
興奮を抑えきれなかった。彼女は、そんな僕を見てほほ笑んだ。ただ、そのほほえみは、これまでの彼女の雰囲気と少し違うような気がした。どこか事務的なほほえみのように感じた。
尾崎の様子は、その時から少しずつ変わっていった。
「実はね。大学生はグレーのチェックしか着られないの」
「どういうこと?」
「チェックメイトには、グレー、シルバー、ゴールド、プラチナ、ブラック、ホワイト、があって、グレーというのは一番下のグレードなの」
「ほかの色は?」
そう言うと、彼女は見下すように僕を見たが、すぐにその表情をひっこめた。
「青や赤、緑みたいな他の色は、若い子が着るの」
「そんなにすごいチェック柄なの?」
とてもやさしいほほえみを浮かべた。そのほほえみは、自分の感情を隠すためのようにも見えた。
「そうよ。きっと、あなたも驚くわ。この世のものとは思えないほど素晴らしいんだから」
その時の僕は、違和感を感じながらも、好奇心があった。この世のものとは思えないほど素晴らしいチェック柄と、彼女にだ。
「特にね、ブラックは本当に素晴らしいの」
十二月に入ってすぐに、イギリスからウィリアム・ホワイトという人物がやってきた。とてもハンサムなイギリス人で、まばゆいばかりのプラチナのジャケットを着ていた。そのチェック柄はため息が出るほど素晴らしかった。三〇代くらいだろうか。想像していたよりずっと若い。老紳士の姿ばかり想像していたからだ。
全体会とは異なって、どこかの企業が所有している洋館の一室が会場だった。部屋には、グレーのジャケットを着た十人ばかりの学生が集まっていた。彼が入室すると、口々に、彼の着ているジャケットの素晴らしさについて話し始めた。彼らの言葉に満足そうな表情を浮かべながら口を開いた。最初は英語で挨拶をすると、流暢な日本語で話し出した。
「チェックメイトの皆さん。こんにちは。あなたが、今回、入会された小田切さんですね。よろしく」
僕に向かっていった。
「よろしくお願いします」
「みなさんに素晴らしいお知らせがあります。ミスターチェックメイトがいらっしゃいます」
歓声があがった。
「ミスターチェックメイトって?」
横に座っていた尾崎もまた目を輝かせながら言った。
「あなたラッキーね」
「そうなの?」
「世界に三人しかいないブラックのジャケットを着た人よ。とても素晴らしいジャケットなんだから」
尾崎は感極まっているようだった。もしも尾崎がいなければ、僕はきっとすぐにチェックメイトを辞めていたと思う。
「見たことあるのかい?」
思わず僕がそう尋ねると、尾崎は別人みたいに、僕のことを敵意に満ちた眼差しで見た。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、ごめん」
尾崎は黙り込んでしまった。
イギリスからの来客を囲む会は一時間ほどで終わった。会が終わるころ、彼は僕のほうを向いていった。
「新しい入会者のあなたにお話があります。少し残っていいただけますか」
うなずいた。尾崎は、代表の男と何かを離しながら、僕のことを振り返ることもなくその場を後にした。
二人きりになると、ミスターホワイトは握手を求めてきた。
「入会おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「入会した人には必ず面会するようにしているんです。そして、チェックメイトに関する説明をしています」
僕が納得したのを確認すると、ミスターホワイトは話を続けた。
「チェックメイトには2つの意味があります。チェックを着た仲間、つまりチェックメイトです。そして、もう一つは、チェスのチェックメイト、つまり、詰み、です」
「矛盾したように聞こえます」
「ええ。そうです。ですが、世の中、いたるところ、矛盾が同居しているのです。愛と憎しみもそうでしょう?同じことの違う側面です」
「後者のチェックメイト、つまり、詰みになるとどうなるんですか?」
「その時は、あなたのそのチェックを脱ぐことになります」
ミスターホワイトの表情はとても冷淡なものだった。
「それからもう一つ。あなたも着ているこのチェック柄の秘密です。このチェック柄は我々しか作ることができない。世界の誰にもまねすることのできない技術なんです。あなたは先ほど、私のこのジャケットを着てため息を漏らしましたね」
改めて、彼の着ているプラチナのジャケットを眺めた。どうしたらこんなチェック柄を作れるというのだろう。
「ええ」
「あなたはよくわかってる。きっと、素質がある」
「あなたには、シルバーのジャケットを送ろうとおもいます」
三日後、本当にシルバーのジャケットが自宅に送られてきた。グレーのジャケットも素晴らしかったが、シルバーのジャケットはその上をいっていた。はたからしたら大して変わらないように思うかもしれない。だが、細かいところが微妙に違う。
その次の日、キャンパスにシルバーのジャケットを着ていくと、やはり目立ってしょうがなかった。
「どうしたのそれ?」
尾崎は手を口に当てていった。
「もらったんだ」
「あなたには素質があるのよ」
彼女はずっとうつむいたままだった。
「ねぇ、チェックメイトには二つの意味があるって知ってた?」
「もちろんよ」
「もう一つのチェックメイト、つまり、詰みってどういうことなんだい?」
「チェック柄を脱ぐということは永遠の別れってこと。そのシルバーのジャケットを着ることはできなくなるの」
クリスマスの二日前。ついに、ミスターチェックメイトがやってきた。高級ホテルの広間を貸し切って行われた。日本中にいるチェックメイトが集結し、その数は二千人を超えた。ステージに現れたミスターチェックメイトは遠くからでもわかるほど神々しさを放っていた。グレー以上のジャケットを着たメンバーは三十人ほどいて、ステージ近くに座ることができた。僕以外にもシルバーを着た女性がいて、他にもゴールドを着た老夫婦までいた。僕の隣には、ミスターホワイトが座っている。
「あの人はおいくつなんですか」
ミスターホワイトに小声で聞くと、
「年齢を聞くのは失礼ですよ」
彼にいさめられた。
「ですが、お教えしましょう。今年で七二歳です」
信じられなかった。どう見ても四十代くらいにしか見えない。彼の着るブラックのジャケットは、確かに、素晴らしい技術で織られていることがわかった。だが、どこにもチェック柄が見当たらなかった。
後ろのテーブル席に座っていた尾崎は感極まって泣いていた。
「君にはチェック柄が見えるのかい?」
「もちろんよ。あなたには見えないの?」
見えない、と言うことができなかった。尾崎だけじゃない。他のメンバーもみな口々にジャケットのすばらしさを訴えていた。ミスターホワイトさえも感激して涙を流していた。どうなっているんだ?いくら目を凝らしてもチェック柄を見ることができなかった。
ミスターチェックメイトは、テーブル席を回りながら、一人一人に挨拶していた。間近に来た時、改めてジャケットを眺めた。
「僕にはどう見てもチェック柄が見えません」
そんなことを言ったらどうなるのかくらい予想できたと思う。でも、言わずにはいられなかった。ミスターチェックメイトの表情が変わった。それまでの若々しい姿が瞬く間に、老人の姿へと変化した。
「君にはみえないというのか?」
尾崎を見ると、蔑むように僕を見ている。
「本当に君はチェックメイトなのか?」
ミスターチェックメイトが目くばせをすると、僕の隣にいたミスターホワイトが悲しそうにうつむいた。
「君は英気を養う必要がある」
僕にそう言い残すと、ミスターチェックメイトは別のテーブル席へと移動していった。
「わかりました」
ミスターホワイトは立ち上がって、移動するミスターチェックメイトに向かって恭しく礼をした。
「君はとんでもないことをしたな。見どころがあると思ったんだが」
一時間ほどでその会は終了し、ミスターチェックメイトは宿泊しているそのホテルの部屋へと戻っていった。ミスターチェックメイトが去った後は、メンバーたちの間で豪勢な料理を食べながらの談笑が始まった。気が付くと、尾崎の姿が見当たらなくなっていた。
ミスターホワイトがやってきて、僕に声を掛けた。
「ちょっといいかな?」
そう言うと、僕に外に出るよう促した。しばらく黙ったまま、ミスターホワイトと二人でエレベーターに乗り、三十八階のフロアーに到着した。
エレベーターを降りるとすぐに、ミスターホワイトは言った。
「この世界ではタブーなんだよ」
僕は何も言うことができなかった。
「これを教えるということはどういうことかわかるね?」
そう。チェックメイトなのだ。
「ついでだから、君にいいものを見せよう」
そう言うと、彼は僕をホテルの一室まで連れていった。スイートルームのドアを開けると、ベッドルームがカーテンで仕切られている。
「さあ、見るといい」
カーテンの隙間から中を覗くと、ミスターチェックメイトが裸で立っている。大きな彼のものがはっきりと見える。
バスルームから尾崎がやってきた。躊躇う事なく服を脱いで素っ裸になった彼女は、彼に抱き着くと、彼のものを愛おしそうにしゃぶった。そして、そのままベッドの上に乗って、自ら誘うように四つん這いとなり、手で自分の穴を広げた。彼はそれが当然であることのようにそのまま挿入した。隙間から覗いている僕をじっと見据えながら腰を振った。そして、ほほ笑んだ。
隙間から目を離すと、ミスターホワイトは言った。
「もういいのか?」
「ええ」
部屋を出る時、カーテンの奥から彼女の歓ぶ声が聞こえた。
そうして、チェックメイトを脱退した。
電車を降りる時、尾崎を見かけた。まばゆいゴールドのジャケットを着ていた。同い年の彼女は、あの時のままの彼女だ。気が付いたのか、ちらりと僕を見た。僕の着ているチェック柄のジャケットを見ると、生気のない目に光が灯ったような気がした。気のせいかもしれない。
追いかけることもなく、ただ過ぎ去っていく彼女を見つめていた。今でもまだ、高校生の時に買ったジャケットを着ている。いつの間にか、均整の取れたチェック柄に興味がなくなった。不均整なチェック柄のほうが自分にしっくりと思ったからだ。
チェックのジャケットくらい好きに選べるほうがきっと幸せなのだ。(了)