興梠さんの少女

 私に霊感はない。彩月(あやつき)れなは子供の頃からそう思っていた。宗教にどっぷりはまった親の影響だったのかもしれない。家の中は、厳しいおきてであふれていた。二十四時間三百六十五日、ほとんど隙間なく掟で埋め尽くされていた。朝起きてから夜寝るまで、時には寝ている間さえ、厳しい戒律が呪文のように唱えられていた。少しでも戒律を乱すと、厳しい罰が待っていた。小学五年生まで、罰を受けるたびに、親に対する憎しみが膨れ上がった。小学校でいじめられなかったのも、親に対する憎しみのおかげだった。

 けれども、小学五年生の出来事をきっかけに、そんな親のことを頭から否定することはなくなった。小学五年生も終わりに差し掛かったころ、最近神様が見える気がするの、と伝えた時、両親は涙を流して喜んだ。その姿を見て、この人たちは、本当に神様がいると心から信じているのだ、と悟った。何かを熱心に信じることをどうして否定できるのかしら。

 れなは、撮影クルーとともに、山奥を進んでいた。今年、二十四になった彼女は、ADとして二年目が過ぎようとしていた。親元を離れ、制作会社に就職することにしたのだ。親の金を当てにすることのできなかった彼女は、奨学金を借り、時には風俗で働きながら、何とか学費を工面して大学を卒業し、なんとなく面白そうと思った制作会社に就職することにした。女だからといって甘やかされることのない職場は、一週間一度も家に帰れず、風呂に入ることもできず、屋外で撮影がある時には簡易トイレで用を足すこともあった。そんな過酷な仕事も彼女にとっては少しも苦ではなかったのだ。

 やがて、撮影クルーは、廃墟となった敷地にたどり着いた。

「彩月!撮影許可は取っているんだよな?」一番前を歩いていたチーフ助監督が呼んだ。

「はい。所有者に連絡して、きちんと取っています」

 荷物を下ろすと、ディレクターを囲んで段取りについての会議が始まった。始まるとすぐに、チーフ助監督は再びれなに声を掛けた。

「タレントさんの車、後、どれくらいで着く?」

「後、二十分くらいです」

時計を見ると、チーフ助監督は煙草を取り出してぷかぷかと吸い始めた。

「れなちゃん、一緒に中見てみない?」

 撮影の準備をしていると、アシスタントプロデューサー、通称AP、の興梠瞳が声を掛けてきた。れなは親しみを込めて興梠さんと呼んでいる。この番組を担当するようになってから、何かと目を掛けてくれているAPだ。

 敷地の中には、廃墟の見本になりそうな四階建てのビルがぽつんと建っていた。よく見ると、わずかに建物が傾いている。きっと、地震が来たら崩れ去ってしまうだろう。今は午後五時。もうすぐで日が暮れる。撮影するにはちょうどいい時間帯だ。

 今、れなが担当している番組はバラエティー番組だ。先月の企画会議で、オカルト特集が組まれることとなった。評判が良ければ、月一回のペースでやるということだ。今日は、記念すべき初回のロケだ。

この企画が立ち上がったのは、興梠さんの霊感がとても強いという話が企画会議で話題に上ったからだった。興梠さんがADだった頃、彼女のいた現場には必ずと言っていいほど、映ってはならない何かが映りこむという話だ。

 半信半疑だったれなに、興梠さんはその映像をこっそりと見せてくれた。見せてくれたのは全部で五本のVTR。どのVTRもカットされて放送されることはなかったらしい。だが、確かに映っていた。長い髪の少女の姿がはっきりと。この企画が決まったとき、自分向きの企画だと、れなは思った。私には霊感がない。だから向いているんだ、と思った。

 ビルの入り口は、腰の背丈まである雑草が行く手を遮っていた。中に入ると、ひんやりとしていた。季節は三月の初め。だいぶ暖かくなってきたが、日陰に入るとまだ体が冷える。コートなしにビルの中に入るのはいささか寒い。

 ビルの中に入るとすぐに、興梠さんは立ち止った。

「教えによればね、世の中には二種類の人間がいるの。信じて救われた人と、救われなかった人」

「教え?」

「そう。昔ね、そんなことを言っている人がいたの」

興梠さんとは共通点があるのかもしれない。

「興梠さんは、オカルトが好きなんですか?」

「好きか嫌いかと聞かれたら嫌い」

「反対すればよかったのに」

「仕方ないじゃない。そういう雰囲気だったし」

「私、全然霊感がないんですよ」

「同じなのよ」

「同じ?」

「そう。さっきの二種類の人の話。この世には人間には想像もつかない世界があることを真剣に信じるのって、とても素晴らしいことだと思うの。でも、不思議だと思わない?人ってね、信じて救われた人と同じくらい救われなかった人を求めてるのよ」

「そんな風に考えたことなかったです。一生懸命に何かを信じることって、自分が救われたいからだとばかり思ってました。そういう人たちは、信じて救われた人の話を何度も何度も聞かせるんです。でも、オカルトってそうですよね。オカルトに登場する霊って、救われなかった人たちなんですよね。救われなかった人たちがいるって信じてるってことですよね」

「否定するわけじゃないんだけど、ちょっと違う気がする。でも、なんとなくね。れなちゃんには、私と同じものを感じたの」

 その後、二手に分かれて、三十分後に屋上で合流すると約束して、ビルの中をそれぞれ散策することにした。散策しながら、れなは小学五年生の時の出来事を思い出していた。

   *

 小学五年生の冬休み。冬休みが来るのが待ち遠しかった。数か月も前からこの街に劇団がやってくることを知っていたからだ。両親が唯一許してくれた娯楽が演劇だった。毎年、近くの市民会館に劇団がやってくる。確かこぐま劇団と言う名前だ。

 ただ、その年はいつもと違った。松園ぴあのという珍しい名前の男性劇団員が混じっていたのだ。風変わりな名前に、ぴあのさんと親しみを込めて呼び、小学生たちは皆興味を持った。誰かが尋ねると、普段仕事をしていて、時々、劇団員として参加していると言っていた。

演劇を鑑賞したあと、小学生たちに取り囲まれた彼は、秘密の話を打ち明けてくれた。とても霊感が強くて困っているという話だった。幽霊が見えるの?と誰かが聞くと、その通りだとぴあのさんはうなずいた。しかも、彼の事務所にはしょっちゅう幽霊が出るのだと言った。

 興味を持ったれなと同級生たちは、両親の許可を得ると、その劇団員の事務所に向かった。

そのビルはとても古く、見るからに怖そうだった。階段はところどころひび割れていて、共用部の蛍光灯は明るさを失っていてとても暗かった。ぴあのさんの事務所は四階にあって、皆でエレベーターに乗り込んだときれなは違和感を感じた。狭いエレベーターの中で、一緒に来た同級生たちはおしくらまんじゅうをするみたいに互いに身を寄せ合ってずっとびくびくしていたから、乗っている間はその違和感がなんなのかよくわからなかった。エレベーターが四階に着いたとき、その違和感の正体がはっきりとわかった。

 エレベーターの扉が開くと、ぴあのさんの事務所はすぐ目の前にあった。あまり広くない部屋には、作業用の机とその後ろにホワイトボード、それから古びたソファーが置かれていて、壁一面が本棚になっていた。所狭しとオカルト系の本や雑誌が積まれていた。

 皆がソファーの前に立った時、同級生たちがキャッと叫び声をあげた。誰かが、ホワイトボードの上に人の腕があると言い出すと、ほんとだ怖い!と口々に叫び声をあげはじめた。その姿を見て、ぴあのさんは嬉しそうに笑った。

「なあ、本当にいるだろう?」

ただ、れなには何が起きているのかわからなかった。

「どうしたんですか?」

「今、ホワイトボードが揺れて人の腕が現れただろう?君には見えなかったのかい?」

「見えません」

「そうか」

彼はとても残念そうな顔をしていた。友達は皆驚いていた。勇敢だという子もいた。でも、そんなことよりも、ぴあのさんも同級生たちも誰も気が付いていなかった。五人で来たのに、事務所に着いた時にはなぜか六人になっていたこと。ぴあのさんが説明している間、その六人目はじっと話を聞いていてときおりクスクスと笑っていたこと。どうして皆気が付かないのだろう?

「あのう、何か変だと思いませんか?」

事務所を出る時、ぴあのさんに念のため確認した。

「うん、どうしたの?」

「さっきからとても変だと思うんですよ」

れなの言葉に、ぴあのさんだけでなく他の同級生たちもよくわからないと言った風に首をかしげていた。れなのすぐ隣にいたはずの六人目に誰も気が付いていないのだ。

 私には霊感がないのではないか。この人たちの見えるというものが私には見えなくて、私に見えるものはこの人たちには見えない。私に見えている六人目は、きっと、私にしか見えない。家に帰ったとき、その予感は確信へと変わった。家に帰ってからもしばらくの間、その六人目はれなの横にいたのに、両親には見ることが出来なかった。だから、私には霊感がない。

 そう思った時、両親への憎しみが瞬く間に消えた。ほんの短い時間、「四人」で過ごす間も、両親は熱心に神への篤い信仰を口にした。自分に理解することのできない神がいるように、両親には理解することのできない何かがこの世界にはいる。オカルトと宗教は紙一重なのではないか。

 夕飯を食べ終えた時、れながありがとうと言うと、その六人目はくすくす笑いながらどこかへと消えていった。

   *

 二階に差し掛かった時、後ろに何かがいるのに気が付いた。女の子だ。髪の長い女の子。

 見たことある。そうだ。興梠さんにみせてもらったVTRに映っていた。れなが立ち止ると女の子も立ち止まった。前に進むと一緒になって進んだ。ただ、何も言わず、じっとついてくるだけ。

 私に霊感はない。れなは自分にそう言い聞かせた。なんとなく、彼女の顔を見てはいけないような気がした。女の子はれなを追い越さない速度で歩いている。だんだん、フロアーは暗くなる。周りが見えない。ほとんど明かりのない階段を登る。三階、四階。足音がしない。階段はよく音が響く。カツーン。カツーン。れながあるくたびに足音がする。

 やがて最上階に差し掛かった時、女の子が自分に近づいてくるのが分かった。背筋が寒くなる。何かが身体をさするような感覚が襲う。屋上へと出るドアのノブを持つ手が震える。手が小刻みに震えてノブを回せない。背筋に広がった何かが、首元まで伝って顔の前に来ようとしている。振り向いちゃいけない。振り向いちゃいけない。

ようやくドアノブを回して屋上に出た。冷たい風がとても心地よく感じた。全身汗が出ている。後ろにいた少女の気配を感じなくなった。すっかり空が赤くなっていた。もうすぐ陽が沈む。

 視線の先に興梠さんがいた。れなに気が付くと、興梠さんは手を振ってくれた。

「すごい汗」

「寒い」

急に体が冷えているのに気が付いた。

「何かあった?」

興梠さんを見た時、その肩にあの女の子がいた。女の子は微笑んでいた。

「どうしたの?」

「いえ」

 車が近づいてくる音がした。階下を見下ろすと、ロケバスが停まり、車からタレントが降りてきた。今日のタレントは三人。男一人に、女二人。

「興梠さん、そろそろ降りてきてください!」

ディレクターが合図をした。

やってきたタレントの中に、とても霊感の強いという噂の男性タレントZがいた。Zを先頭にして、ビルの中を一階から順番に屋上まで回った。いつも陽気なZは、普段とかわらずに女性タレントたちと会話しながら歩いていた。女性タレントは時折大声をあげる。

 Zは、終始肩をすくめてここは霊感の強い場所だと言った。女性タレントたちは口々に背筋に寒気が走ると言った。だけれど、Zたちは全く気が付いていなかった。彼らの後ろを歩く少女の姿を。そうだ。きっと、この少女もまた霊感の対象外なのだ。

 四時間の予定だったロケは二時間で終了した。撮れ高が十分だったからだ。ロケは大成功に終わったと言えるだろう。周りがハッピーならそれでいいのだろ。彼らが信じたいものが真実なのであって、彼らには見えないものは真実ではなくなる。そうして、真実は相対化されていく。真実は一つだなんてお世辞にも言えない。

 都内のオフィスに戻って撮り終わった動画を見返していると、案の定、想定外のものが入っていた。ノイズだとか人影のようなものだとかそう言ったたぐいのものだ。だけれど、これだけは放送できないというのがおよそ五分ほど映っていた。すぐに興梠さんを呼んで確かめてもらった。興梠さんは言った。

「どうしてかしら。ここ数年は大丈夫だったのにねぇ」

 興梠さんと一緒に見た動画には、Zの肩にずっと少女が映っていたのだ。その少女は興梠さんの肩にいたのと同じ少女だ。皆で相談したうえで、念のためZに確認しようということとなった。

 後日、マネージャーとともにZがやってきた。

「ねぇ、どうして言ってくれなかったんです?」

開口一番、Zは言った。

「そう言われましても、誰も気が付かなかったんですよ。この動画を確認するまで、あそこに少女がいるだなんて誰もわからなかったんです。なあ、そうだろう?」

プロデューサーが周りを見ると、みな口々にそうだといってうなずいた。

「あのう、もう一度いきたいんです。今度は撮影抜きで」

「もう一度?」

「もちろん、皆でということではありません。どなたかと一緒にもう一度あの場所に行きたいんです」

「誰か行ける?」

プロデューサーが言うと、興梠さんが真っ先に手を挙げた。

「私が行きますよ」

「申し訳ないです。いえね、知り合いが行きたいというんです」

「知り合い?」

「霊感の師匠と言うか。この類の話にとても強い人なんです」

「もう一人、連れて行きたいんだけどいいですか?」

興梠さんが確認すると、プロデューサーはうなずいた。

「れなちゃん一緒に行ける?」

「私は構いませんけど」

 そうして、再びあの廃墟に行くこととなった。先に到着した興梠さんとれなは、Zたちがやってくるのを待った。三十分ほどしてやってきたのは、Zとマネージャー、そして、ぴあのさんだった。まさかもう一回来るとは思わなかった。一方のぴあのさんは、れなに気が付いていなかった。あの小学五年の冬休み以降、演劇を見ることはなくなった。あれ以降、ぴあのさんがどうなったのかわからなかった。

 十年ぶりに見かけるぴあのさんは、その時の雰囲気は依然とまるで違っていた。寄せ付けない何かがあった。勝手に過去を美化していただけかもしれなかった。大人になった自分と、小学生の自分とでは印象が違うのも仕方ない。

 メンバーがそろうと、さっそくビルの中に入っていった。いつも陽気なはずのZは普段とは違ってとても物静かで、ぴあのさんの後ろを遠慮がちに歩いていた。その姿は、こないだ女性タレントたちと一緒に歩いていた時とは違って頼りなさげに見えた。

「あの少女が見えたのはどのあたりですか?」

ぴあのさんはれなに尋ねた。

「二階だったはずです」

 一行は階段を登って二階へ向かった。階段はとても暗かった。四人の歩く足音がとてもよく響いた。ぴあのさんはこういうのには慣れているような口調で言った。

「ここはすごいですね。ビシビシ感じます」

「やはり、ここにきたのがまずかったんですかね」

マネージャーは不安そうにぴあのさんに尋ねた。

「まだ何とも言えません。ただ、嫌な予感はします」

ぴあのさんがそう言うと、Zは今にも泣きだしそうな表情を浮かべた。興梠さんは何か言いたそうにれなの顔を見た。

 二階に着くと、先頭を歩いていたぴあのさんは振り返って、れなと興梠さんに尋ねた。

「見えますか?」

「いえ見えません」

でも、すでにその少女は後ろをついていた。だが、彼らには見えていなかった。少女は手を伸ばしてZの上着の裾を引っ張っていた。

「きっとね、ここで死んだ女の子の霊なんだよ」ぴあのさんは言った。

「そうですかねぇ」

「いや、私はもっと悪い霊なんだと思うんですよ」

ぴあのさんは目を閉じ、両手の人差し指をそれぞれ伸ばして耳にあてた。アンテナのつもりなのだろうか。

「うーん。違うな。この少女は家庭が嫌で逃げ出してきたんだ。そして運悪くこのビルで事故死した。死んだことに気がつかないまま。だから悪霊じゃない」

 ぴあのさんは目を開け、Zとマネージャーを見た。

「大丈夫、君はそんなに心配する必要はない。何もかもうまくいく。今は、そういう時期なんだ。悪いことはそうそう起きるもんじゃない」

「じゃあ大丈夫なんですね?」

Zは泣いていた。マネージャーは泣きじゃくるZを懸命に励ましていた。れなには、そんな会話がとても滑稽に見えた。ひとしきりZが泣いた後、もう十分です、とぴあのさんは言った。そして、やってきた車に乗り込んで、Zたちは帰っていった。

Zたちを乗せた車が見えなくなると、興梠さんは待ちきれなかったみたいに口走った。

「本当にくだらない。バカじゃないの?」

れなは笑っていた。

「あなたもそう思う?」

「はい」

「本当のこと言うね。実はね、私には見えるの。あの女の子が。小さい頃はね、なんで私につきまとうんだろうって思ってた。それも、他の人には見えなくて、私にだけ見えるの。霊感の強い人に何度か相談しようとしたんだけど、誰も見えないの。みんなでたらめばかりだって思ってた。でもね、それは違うと思うのよ。私には見えないものが彼らには見えていて、私はその逆だってね。それからこう思うようにしたの。彼女はきっと私のお守り。あの少女がいるから私は生きていられるって。信じられる?」

れなはどう答えていいかわからなかった。安易に信じられると言っていいのだろうか。戸惑っているれなを見て、興梠さんは微笑んだ。

「こないだ言ったでしょ?世の中には二種類の人間がいて、信じて救われた人と、救われなかった人がいるって。でもね、それは世間が作る虚像。あるいは私の知らない真実なんだと思う。私の知っている真実は別のところにある」

 きっと興梠さんにも霊感はないのだ。私に霊感がないように。興梠さんがそうであるように、私にもきっとこの世界を護ってくれる何かがいる。

 その帰り、プロデューサーはこれからZをメインにこの特集を定期的に放映しようと考えているらしい、と教えてくれた。

 お蔵入りになるかと思われたが、結局、Zと一緒に映った少女の部分をカットして放送され、特集は大反響を呼んだ。けれど、二回目が撮影されることはなかった。Zが覚醒剤を所持していて捕まったからだ。(了)

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