覇権国家の計画遂行力とは!

情報戦略アナリストの山岡鉄秀氏が語る真珠湾攻撃の真相。

米国の長期的戦略であった日米対戦を想定したオレンジ計画
真珠湾攻撃は、まさに日本が先手を打たざるを得ないように仕向けられたオレンジ計画の一部というお話です。

「真珠湾攻撃は誘導されていた??日本敗戦??「 オレンジ計画」??日本人が知らない致命的戦略性の欠如 山岡鉄秀 【赤坂ニュース 141】令和6年7月24日 参政党」




概要


民間シンクタンクのシミュレーションでは、中国の台湾侵攻は2027年という設定をしている。
なぜ2027年なのかというと、台湾侵攻に必要な軍事力を備蓄するのにあと数年必要となるからというのが専門家の意見。

あくまでも相手方が合理的に動いてくれればという話で、相手が合理的に動いてくれるとは限らない。

シミュレーションの重要性


この台湾侵攻のタイムスパンはわずか3年の話。
かつての日米戦争はどのくらい前からシミュレーション開始していたのか。

真珠湾攻撃は「寝耳に水。騙し討ちされた。」などと米国では言われています。
日本人もそう信じさせられてきた。

実際には日清戦争の後あたりからシミュレーションされていた。
日清戦争に勝利した日本を見て、「これはやばい。強くなってくる。」となったのが米国。

日本を警戒する考え方


米国の歴史は、東海岸から入植してインディアンを殺戮し、西海岸まで到達した。
スペインと戦争してフィリピンとグアムを占領する。
ハワイの王国も入植してついには奪ってしまう。
※ ハワイ人国家を倒して米国に併合したのが1900年です。

このように、西海岸に達したら次は太平洋、中国大陸まで進出したいと考える。
その障壁、邪魔となったのが日本列島です。
「日本を叩かないといけない」という決意は、19世紀末にあった。

対日開戦戦争計画が始まったのが1897年。
それがオレンジ計画というもの。

オレンジ計画とミニッツ提督の発言


カラーコード計画では、ありとあらゆる国との戦争を想定した計画をしていた。
オレンジ計画は対日戦争を想定した計画。
計画は随時更新され、ついには戦争になっていく。

当時、ミニッツ提督という海軍元帥がいた。
ミニッツ提督は、「日本との戦いは、オレンジ計画の机上の演習どおりに進んだ。」と言っている。
日本は全国力を持って突然に攻撃してくる。
当初は、アジア地域の資源地帯の占領に成功する。
しかし、米海軍は次第に西へと進み日本軍を壊滅して追い詰めていく。
島沿いに追い詰めて最後は戦略爆撃で日本の都市と生産能力を徹底的に破壊する。
日本が降伏するまでそれを続ける。

結果論ではなく、最初からの計画だった、その通りに行ったと言っている。
オレンジ計画の最終案は開戦の1年前(1940年)には出来ていたと述べている。

真珠湾攻撃とは?


我々日本人が習ったのは、「米国が奇襲攻撃を受けてビックリし、日本は許せない。こんな騙し討ちをするなんて」となって戦争になったと。

とんでもない話で、真珠湾攻撃のような奇襲攻撃というものが、オレンジ計画発動の狼煙となると計画されていた。織り込み済みの計画だった。

日本がそうせざるを得ないように持っていくという計画があり、原油の禁輸など経済制裁をされた日本が、座して死を待つよりも一太刀浴びせるといって真珠湾攻撃を行うことになる。

真珠湾攻撃は山本五十六(海軍大将)は強硬に主張するのだが、無謀な作戦は賛成できないと猛反対を受ける。
これをやれないなら辞任するとまで言った。

真珠湾攻撃を強く推進した本人は、陣頭指揮を執らずに呉で将棋を差していた。
真珠湾攻撃が狼煙となり、オレンジ計画通りに事が進んで1945年の敗戦となる。

用意周到


米国のような覇権国家は、用意周到に計画を練り実行するということ。
我々日本人はそんなことを知らないで、日本人が悪いことをしたから罰を受けた、原爆も落とされたというように丸め込まれている。
ものすごくナイーブだということ。


山本五十六とは


真珠湾攻撃が狼煙だったというのであれば、山本五十六が米国急襲を考えつくに至る経緯も考察する必要があります。

「山本五十六」

そこで、Wikipediaから経歴を探ってみたいと思います。

以下、Wikipediaより抜粋。
1901年、海軍兵学校に入る。
1904年に卒業。
1905年、少尉候補生として装甲巡洋艦に配属。
1909年、米国の駐在武官として赴任
1911年、海軍大学校を卒業、砲術学校と経理学校の教官となる。

1919年、米国の駐在を受命、ハーバード大学に留学した。
米国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けている。
砂糖と塩もプラントで大量生産され、市場で大量消費されていることを知る。
日本の生産と流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。
1921年に帰国。
1922年、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察。

1925年、駐米大使館付武官となり、再度米国へ滞在する。
再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察
1928年に帰国。

1929年、海軍少将に進級し、ロンドン軍縮会議に自責随員として参加。
軍縮案に強硬に反対し、上層部を困らせている。
結局、外交団代表は山本の意に反して軍縮条約に調印した。

山本は、軍令部次長・末次信正に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである」と進言した。

1930年、海軍航空本部技術部長に就くと航空主兵を強力に推し進める。
外国機の輸入と研究に積極的であったが「外国機の輸入は我航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ。それは日本科学の試験台なのだ。若し国産機が外国機の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その替わり、それを凌駕する優秀機が製造されたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え」と技術者達を激励している。

G3M(九六式陸上攻撃機)の生みの親は山本五十六である。
1933年に山本五十六が帝国海軍の航空局技術部長であったとき、長距離陸上機が緊急に必要なことについて関係者を説得した。
山本五十六は、このような長距離陸上機が太平洋の遠距離で海軍の作戦を支援するために艦載機と同様に必要なことを強調したのである。

1934年、「俺も軍人だからね。どうしてもアメリカとやれといわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。……俺の夢なんだからね。抑止力として、空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで真珠湾とマニラを空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」「少なくとも一年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機が存在しないってわけさ。それだけの戦争はやって見せる」と駐米大使・斉藤博に語ったとする主張がある。ただし、原徳三によれば当時の大本営にはPearl Harborを指す日本語が存在せず、山本は真珠港と呼んでいたとされる。
※ 文脈からすると、この発言が山本五十六本人とする確証がないと感じます。

同年、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として日本を離れた。
山本は政府の意を受けて「戦艦・空母の全廃、兵力量の各国共通制限設定」を主張し、列強交渉団と互角に渡り合う。
ただし、「戦艦・空母の全廃」は会議の決裂を日本政府が意図したものであり、山本が出発する直前の9月7日にワシントン海軍軍縮条約の破棄が決定している。
ロンドンからかつての部下へ宛てた手紙には「英米を叩頭せしむるの日必しも遠からざるか如く被感候 海軍としては何はともあれ航空の躍進こそ急務中に急務なり」と書いた。
1935年、第二次ロンドン海軍軍縮会議に赴く軍事参議官・永野修身から随行するよう要請されたが、先の予備交渉で懲りた山本は固辞した。

この頃、欧米列強は新世代戦艦(ポスト条約型戦艦)の開発・建艦を一斉に開始し、日本も大和型戦艦の建造計画を立案する。
山本は航空本部教育部長・大西瀧治郎大佐と共に反対論を唱え、艦政本部と対立した。
山本は「砲戦が行われる前に飛行機の攻撃により撃破せられるから、今後の戦闘には戦艦は無用の長物になる」と反対し、大和型戦艦建造に携わった福田啓二によれば、山本は福田の肩に手を置き「どうも水を差すようですまんがね、君たちは一生建命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。
これからは海軍も空軍が大事で大艦巨砲はいらなくなると思う」と語った。

山本は日独伊三国同盟の締結に対し、米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した。
このことから海軍条約派三羽烏(海軍左派)とも言われているが、陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出す等積極的姿勢を見せることはなかった。
山本達の反対理由は主に、以下の4つであった。

  1. 英米との関係が悪化して、支那事変の解決が困難になる。

  2. 日ソ開戦の場合、ドイツは遠距離すぎて援助・支援が期待できない。

  3. 条約で日本が損をする項目があるのではないか。

  4. 軍事同盟締結により、ドイツとイタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある。

政治も世論も同盟締結に傾き、山本達は孤立していく。

1939年(昭和14年)8月30日、山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。
山本は連合艦隊司令長官に任官されることを拒否し、吉田善吾が海軍大臣に内定された際、吉田の下で次官として留任し日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望して、米内光政に人事の撤回を強く要求したが認められなかった。
連合艦隊司令長官就任は采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるためにこの人事を行った。

山本はアメリカとの戦争は無謀と知りつつ海軍軍人・連合艦隊司令長官としてアメリカを仮想敵とした戦略を練り、連合艦隊参謀長・福留繁にハワイ奇襲作戦について語っていた。
また山本はアメリカと戦うためには航空機増産しかないとの信念に従って、当時最新鋭の零式艦上戦闘機と一式陸上攻撃機各1,000機の増産を求めるが、軍令部第一部長・宇垣纏に拒否された。

幾度かの駐在経験からアメリカとの国力の違いを認識しており、1940年4月11日の故郷・長岡中学校での講演で「伸びきったゴムは役に立たない。今の日本は上から下まで、全国の老人から子供までが、余りにも緊張し伸びきって、それで良いのか」と語りかけ、「日本がアジアの真のリーダーとなるには20-30年かかる」と述べている。

海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定した。
山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった。
山本は堀悌吉に「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」と言い残して東京を去った。
友人の原田熊雄に「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門」の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語った。

当時の近衛文麿首相の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は
「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい
と発言している。

1941年(昭和16年)1月7日、海軍大臣・及川古志郎への書簡『戦備ニ関スル意見』にて「(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す」とあり山本はすでに真珠湾攻撃を検討していた。

大西への手紙の要旨は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。
日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。
それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。
目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。
本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。
ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった。
9月12日、再び近衛に日米戦の見通しについて語り、前年9月の会見と同様内容を答申しつつ、戦争になった場合は山本自らが飛行機や潜水艦に乗って1年から1年半は存分に暴れてみせると述べた。

第一航空艦隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は真珠湾攻撃に反対の立場だった。そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦「長門」にいた山本を訪れて反対論を展開した。
山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した。
大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた。
山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた。

10月19日、空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)での奇襲作戦は承認されたが、翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)を含む6隻という山本の希望は容認されず、連合艦隊参謀が軍令部に派遣され、この時にも「職を賭しても断行する決意である」と伝えられ、強硬な申し入れが行われた。
これにより軍令部総長・永野修身の「山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば」という一言で、軍令部側は全面的に譲歩して6隻使用を認めた。
また海軍大臣・嶋田繁太郎に対する10月24日付の書簡で「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ、山本の決意を知った嶋田はハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している。
黒島亀人ら幕僚によれば、山本は「この作戦が採用されなければ長官の職責を遂行する自信ないから辞任する、この作戦に失敗すれば戦争は終わりだ」と漏らしていたという。

山本五十六のまとめ


山本五十六がなぜ真珠湾奇襲作戦をとったのか。
山本五十六は米国に赴任したときの視察において、米国の産業の強さを目の当たりにし、日米は戦争したら負けると感じていたようです。
石油、自動車、航空機、船舶に至るまで日本との歴然とした差を感じています。
ロンドン軍縮会議では軍縮をすればただでさえ負ける戦力なのに呑めるはずがないという考えから反対をしているように感じます。
しかし、条約は締結された。

三国同盟に反対したことも、英米との開戦をするべきではないという考えからであり、基本的には開戦反対の立場を主張しています。

では、なぜ奇襲作戦を強く提案するのか。
勝てない戦争をする場合でも、どうせ戦争をするならば奇襲しかないという決意です。
出鼻を挫くことで1年は押さえ込むことは出来る
その後の米国の巻き返しで負けることは必至ということでしょう。
開戦した場合の日本の末路を一番よく理解していたのではないでしょうか。

今のロシアウクライナ戦争でも分かるように、自国の生産能力、自給力があるほうが優位であり、人口が多い方が持久戦で勝る。


真珠湾攻撃の演習


「真珠湾攻撃訓練と鹿児島」


補足解説


大西洋に出てイギリスの補給路を断ち、ドイツと合流する案が陸軍から出されていた。
鹿児島で真珠湾攻撃の演習を本気でしていた。
相手が嫌がる作戦をやめて真珠湾攻撃を行ったことが不可解。

オレンジ計画を作ったのはセオドア・ルーズヴェルト。
パナマ運河が開通したのが1914年。(第一次世界大戦開戦)
大西洋から太平洋(極東アジア)へ艦船が出るため。
パナマ運河は戦艦ミズーリが通れる幅の設計をした。

1920年代、フランスのクレマンソー氏が、東久邇 稔彦氏に助言をしていた。
「アメリカはドイツの次に日本を撃つ用意をしている」と助言。
東久邇 稔彦氏の話を日本では誰も聞いてくれなかった。


関連記事

「ハワイの歴史」

「オレンジ計画」

「カラーコード戦争計画」

「チェスター・ニミッツ」

「真珠湾攻撃」

「第3回 真珠湾「騙し討ち」説の崩壊―ルーズベルトは知っていた、その最終にして完全なる報告3」

「大西洋と太平洋を結ぶ、パナマ地峡に設けられた運河」

「ミズーリ (戦艦)」

「東久邇宮稔彦王」

Wikipediaより抜粋。

フランス留学中に、画家のクロード・モネについて絵筆をとった。
モネに親友のジョルジュ・クレマンソーを紹介され親交を深めた。
フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(オレンジ計画も参照)」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外に誰も耳を傾ける者はいなかった
日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸相の地位にあった東条英機に、稔彦王はクレマンソーのこの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東条は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答した。


「ジョルジュ・クレマンソー」


いいなと思ったら応援しよう!