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「つくるよろこび」とデザイン

(初記事なので自己紹介も交えて書いてみました)

企業向けに「デザイン思考」や「サービスデザイン」を学ぶための研修やワークショップを実施させて頂いていると、たまに心の中で「これでよかったのだろうか?」と自問してしまうことがある。
といっても、自分が自分で設計した研修やワークショップの内容に不満を抱いているわけではないし、もちろん、受講していただいた方の反応に問題があるわけではない。そして、心のなかで自問することはあっても、皆さんが喜んだりうなづいたりしてくれると励みになるし、「デザインストラテジスト」を名乗る人間としてのモチベーションの源泉であることに変わりはない。
ただ、自分がもっと理想としている「何か」が、そこではまだ伝えきれていなように感じることがある。

私は現在、コンセントというデザイン会社で、クライアント企業におけるデザインの活用を最大化するための組織設計や人材育成の企画・実行に従事してます。こんな風に書くと、なんだかデザインというものに注ぐ意識や情熱がすごく高い人間を想像されるかもしれませんね。
ただ、私自身が「デザイン」の道に進もうと思った動機自体は、そんなに高尚なものではありません。
最初は、高校で美術の科目が好きだったことと、行きたい学部が他になかったくらいの感覚でグラフィックデザインの専門学校に進みました。卒業後は、就職氷河期の時代だったので不本意だけど小さな印刷会社に入社し、印刷媒体のDTP・デザインの実務経験を積み、そのあと転職を経験する過程で、自分は実制作よりも編集やディレクション方面に向いているような気がしてきて、現在の会社(当時の社名は「アレフ・ゼロ」と言って雑誌や広報物などの編集デザインが主力事業の会社でした)に入り、そこで「コンテンツディレクター」という肩書きを名乗りはじめました。仕事内容は、一般企業の会社案内や広報誌など情報媒体の企画制作で、社内のデザイナーや外部のライターの仕事を統括・ディレクションする立場でした。今振り返ってみても、お客さんが伝えたいと思っている情報を交通整理しながら、台割やサムネールを描いている時はとても楽しかったです。ディレクター職なので、この時期は自分がDTP作業をする機会はもう既に皆無になりましたが、手書きのラフスケッチを通してお客さんと社内のデザイナーとの間に立ち、つくりたいもののイメージを合わせていき、そして、自分のディレクションに応じて出してくるデザイナーやライターのアウトプットに時には「おお、こうきたか!」と驚きながら、さらにお互いのこだわりを重ね合わせてひとつのものをつくりあげる過程は、まさに「自分はデザインをしている」というガツンとした手ごたえがありました。
(このあと、所属している会社の合併などいろいろな環境変化があって、デザインする対象が紙の情報媒体からWebやアプリに、自分の専門領域が編集からUX、IA、サービスデザイン・・・へとそれぞれ移行して今に至っているのですが、その話は長くなりそうなので、いずれまたここで書きますね)

ここで最初の話に戻りますが、デザインを人に教えている立場の自分がなぜ時々「これでよかったのだろうのか?」と自問してしまうのか? それはいま話したような自分の過去の原体験がそう言わせているのかもしれません。
手を動かして何かをかたちにしていく手応えと楽しさ、メンバーから予想外のアイデアやアウトプットが生まれたときの驚き、こういったことも、デザインを教える数日や数時間の研修を通して、できれば伝えていきたいのだけれど、そのような自分のこだわりと、「デザイン思考」や「サービスデザイン」などと呼ばれている方法論とをうまく統合できない自分に歯痒さを感じているのかもしれない。

こういう事を考え始めた時期に、自分の思いの一部分を代弁していただいたように感じた本に出会いました。

「新しいリーダーシップをデザインする デザインリーダーシップの理論的・実践的検討」(八重樫文・大西みつる著、新曜社・2023)。

この書籍のなかの「第3章 デザインリーダーシップのビジョン」では、組織のデザイン力を高めるうえで、

  • 自分の直感を探求しかたちにする技術を持っているデザイナーの特性こそがマネジメントの分野におけるデザインの重要性である。

  • デザインの考え方をマネジメントの分野で応用するために体系化されたものが「デザイン思考」である。しかし、マネジメントの分野では言語化できることや合理性・客観性が重要であるがゆえに、デザイン思考は、デザインから「感性」や「美意識」の要素を取り除く形で普及してしまった。

  • そして、「感性」や「美意識」ということばの響きを私たちの日常にいかに取り戻すか? それはこれからの組織・人の創造性やデザイン能力を高めていくうえでの鍵になる

という趣旨のことが(※上の箇条書きは若干私個人の解釈も混じった要約になってしまっているかもしれませんが)、ミラノ工科大学のロベルト・ベルガンディ教授の論文などを引用されながら述べられております。

私自身もこれまでの自分のキャリアのなかで、仕事の内容が、情報媒体の企画制作つまり「広報・宣伝」の舞台から、サービスデザインつまり「事業開発」や「事業戦略」の舞台へと移行していったとき、専門学校卒で、しかも、ずっとデザインという感性領域だけの分野(と、当時の自分は思っていた)で活動していた自分は、これまでのやり方では太刀打ちできないと思い、ビジネスや経営に関する論理的な教養をひたすらインプットし、クライアントや社内メンバーの前でも「感性」や「美意識」の部分はあえて封印してきたかと思います。

だから、私たちも、言語化できない/客観化できないという理由で、デザインから「感性」と「美意識」を排除してしまってはいけないのだと思います。

八重樫文・大西みつる著(2023)『新しいリーダーシップをデザインする デザインリーダーシップの理論的・実践的検討』新曜社 117ページ

そして、この一言は、この記事の冒頭に書いた「これでよかったのだろうか?」という私自身の自問の理由を見事に言い当てていただいたように思いました。
そうか。自分の中で自問する「何か」はこれだったのか。と。

「デザイン思考」や「サービスデザイン」は、暗黙知として語られがちなデザインの考えとやり方を、わかりやすく体系的に説明して伝授してくれます。
それは大きな意義であり、私自身もそれを実感しているから今のような仕事をやっているわけですが、そこに、フレームワークを通して体系立ててしまったことで、いつのまにか後景に退いてしまった「感性」「美意識」をバランスよく組み合わせることが、できないだろうか?
これは現在、私が一番関心があり、取り組みたいと考えているテーマであり問いです。

この記事を書く数ヶ月前に、私の所属する会社では、Organization Design Group(組織デザイングループ)という新部門が立ち上がり私自身もそのメンバーとなりました。

部門の詳細は上のリンクで書かれていますので、ここでは割愛しますが、デザインに関する新しい知識創造や発達モデルの検討も、この部門のなかで取り組んでいく予定です。

「感性」や「美意識」そして、かつて自分がデザインを通して感じた「つくる喜び」そんな要素を併せ持つ新しいデザイン教育のありかたを探索し、いずれまたこの記事で紹介できればと思います。

初投稿となった自分の拙文を最後まで読んでいただきありがとうございました。
それでは、またお会いしましょう。







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