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【小説】幸せな日々
「私でも自分の出した論文が恥ずかしくなることはあるさ」
大量の本や論文が散らばった足の踏み場もない研究室で、つい5分前に起きた、四宮涼香(しのみやすずか)准教授は、寝転がりながら言った。
「先生でもそうなんですか」
30代半ばにもかかわらず学会で次々論文を発表し、すでに准教授まで上り詰めている人間でも、そのような感情があるのだなと驚いた。
実際彼女の論文は、素晴らしい。同じ人間だとは思えない。未だ大学院生の若造の俺なんて比べ物にならないなんてことは明白な事だが。
「当たり前だとも。あんなのノリと勢いで書いているんだから。後々読み返したら私の端正な顔も恥ずかしさで真っ赤になってしまうね」
研究者としてあまり良くない発言であるだろうが、もはやいつもの事なので俺は慣れた。
てか、論文ってノリと勢いで書けんのかよ。
てか、自分で端正な顔とか言うのかよ。まあ、実際そうだけど。
「だから、周藤(すとう)君も、元気だしたまえ。
いくら先週私に見せた論文がクソ以下の塵ゴミだったとしてもね」
「ぐっ…」
大人としてそんな言葉使っていいのか。
俺なりに一生懸命書いたのに。
「先週言った部分は修正してきたかな?まあ、500箇所くらいあったから1週間じゃ無理か。あっはっは」
四宮准教授は、高らかに笑いながら俺の心を抉りとった。とにかくイラつきすぎて今すぐスーパーサイヤ人にでもなれそうだが、彼女の嫌味のない御端正な笑顔を見ると、悔しいことにそんな気持ちも胸にしまうことしか出来ないのだ。
「修士論文なんて、私は修士1年の6月には書き終わっていたぞ。頑張りたまえよ」
「化け物め…」
なんて人だ。
先週、俺の修士論文は彼女に538箇所訂正された。とりあえずその日の夜は枕を濡らしたのだが、次の日から早速修正に取り掛かった。
彼女の言うとおり、1週間では全ての修正は無理であり、新たに疑問点もいくつか浮かんできたので、自分の書いた論文が改めて恥ずかしくなってしまったのだ。
そこで、今日は何かアドバイスを貰おうとこの研究室に来たのに、余計心を抉られた。
「というか、今何時だ。君の来訪で目を覚ましたが、朝か夜かも分からんぞ」
「今は、13時10分ですね」
「なに、もうそんな時間か。えーと、昨日は何時に寝たかな…」
「また大学に泊まっているんですか?」
「ああ。今は夏休み期間だし、大学内も静かだしな。それに、見てくれ。この本は枕として最高の使い心地だ」
彼女は、未だに寝っ転がりながら枕として使っていた一冊の本を俺に見せてきた。
多分どこかの研究者が書いた研究書なのだろう。随分分厚いし、確かに枕にするにはちょうど良さそうだが…。
「ずいぶんボロボロですね」
「ん?ああ。私が枕として使いすぎてこの辺とか剥げているな。わはは。だがまだまだ枕としては十分使えるぞ」
「そんな使い方していいんですか…」
「いいんだよ。しょうもない本だからな。実験データから無理やり自分の都合の良いように結論づけているだけのあんぽんたん極まりない論文とも呼べない高度な学生レポートみたいなものだ。枕の高さになるくらい文字数を書いたことだけ評価できる」
別に俺が書いたわけではないのに、彼女の評を聞いているだけでなぜか涙が出そうになってくる。
しかし、こんなことをはっきり言えるほどの才が、彼女にはある。
それだけは俺にもわかる事だ。
「まあ、まだ時間はあるからじっくり修士論文は取り組め。私が指摘したところを直せばそれなりに形になるはずだ。課題の着眼点自体は悪くないからな」
「わかりました。もう少し頑張ります」
なんだろう。さっきまで傷ついていた心が、意外にも慰められていく。
彼女の言葉は常に俺の感情を支配しているのか。
「修士を卒業したら、博士にも行きたいんだろう?私の研究室に残るのか?それとも別の大学院にでも行くのかな?その場合は、推薦書の1枚くらいは書いてやるぞ」
「博士も四宮先生にお世話になりたいです」
「ふふふ。そうだろうな。私に1度教わってしまったが最後、他のボンクラ研究者の下で学ぶのなんて到底無理なはずだ。わっはっは」
彼女は陽気に笑っている。
博士に進みたいというのは、将来研究者になりたいとか、研究が好きだからとかいう理由では無い。
俺はただ、まだ彼女と一緒にいたいだけなのだ。
俺は彼女に心底惚れている。
「そういえば、大学の事務室から、早く研究室の掃除をしろと、俺の方に連絡が来ましたよ。普通先生の方に行くもんじゃないんですか…」
「それは、私が何度もメールを無視した挙句、研究室に来た事務員に対しては怒鳴り散らかして追い返したからだろうな。この研究室に所属している者は他に、学生の君しかいないから君の方に連絡が行ったんだろう。いいかげんうるさい奴らだな」
やっぱりこの人のせいかよ。
「事務員の人にめっちゃきついこと言いましたか?」
「は、大したことは言ってないぞ。私も大人だからな。あんま覚えていないが、『二度と来るな。私の研究業績で大学に金が入り、名が上がり、貴様が飯を食えていることを忘れるな』みたいなことしか言っていないぞ」
「めちゃくちゃ子供みたいじゃないですか」
まじかこの人。
「なんだと?事実だからいいじゃないか」
彼女はあっけらかんとして、身体の近くに落ちていた誰かの論文を読み始めた。
こんな感じで俺の日々は続いていく。
なんてことの無い日々だ。
だか、この日々が俺にとっては心地良い。
「少しここで論文を進めていきたまえ。せっかく来たのだから。何かあったら聞け。気が向いたら教えてやるぞ」
「できたら毎回教えてくださいよ」
俺のために用意されているであろう机も、大量の書類や本が散乱しているのでそれを軽く片付けて、俺は論文の修正作業に取り掛かる。
彼女は未だに寝転がりながら恐らくさっきとは別の論文を読んでいる。
本日も幸せな1日である。