【小説】カブトムシの世話

「なにそれ」
岡田は怪訝そうに俺の持っている物体を見ながら言った。
「カブトムシの幼虫だ」
15匹と大量の腐葉土が入っている大きな虫かごは重く、腕が疲れてきたので床に置きながら俺は一息ついた。
「俺の母さんが職場でもらってきたんだよ、同僚で飼っている人がいるんだと。おすそ分けだな」
「その同僚、哀川翔?」
そのツッコミはあまり大学生っぽくはない。
「大学3年生の男でカブトムシ飼ってるのお前だけだよ、もっと大学生っぽいことしろよ、春樹」
今さっき大学生っぽくないツッコミをした奴に言われた。
「俺だって乗り気じゃないが、母さんに世話よろしくと半ば強引に頼まれたんだよ」
「春樹のとこの母さん怖いからな…」
「なんで同僚から引き受けるのを断らなかったのか理解に苦しむ」
自分の母に面と向かって言えなかった不満をつい漏らす。
「色々付き合いとかあるんだろ、社会人ってのは大変だな」
それには俺も同感だが。
「まあ、カブトムシなんて飼うの小学生ぶりでちょっと楽しそうだし、なにより命を無下にはできんからな。とりあえず成虫まで育ててあとは近くの森に放つさ」
「はい、不法投棄」
「そのツッコミはなんだか大学生っぽいな」
「これはツッコミじゃないだろ」
知らんわ、そんなの。

「カブトムシもいいけど、美奈ちゃんはもういいのかよ」
俺はその名前を聞いてつい反応する。
「いつまで言っているんだよ、もう3ヶ月前だぞ」

3ヶ月前。俺は彼女に振られた。その時の記憶は未だに鮮明に脳裏に焼き付いていた。
「冷めたの」
美奈は俺に真っ直ぐ目を合わせながらはっきりと言った。
「そうか」
としか返せなかった。
それを聞いた彼女はテーブルに置かれたコーヒーに一口もつけず、席を立ち、カフェを出ていった。

「高一から付き合ってて、そのまま結婚まで行くと思ってたのになんで振られたんだろうな」
岡田はなんの悪気もなくそう言った。こいつはそんなやつだ。
「知らん。文字通り俺に『冷めた』んだろ。」
人の感情なんてそう簡単に分からない。去年受けていた心理学の講義で、老年の教授がそう言っていたことをふと思い出した。
心理学の先生が分からんのなら誰にでも分からんだろ。

「悲しいねえ。一度愛し合った二人が離れてしまうというのは」
岡田は両手を軽く上げぶっきらぼうに言った。なんだこいつ。
「お前は今の彼女とどうなんだ、あの、名前なんだっけ」
「志保だよ。相変わらず人の名前覚えるの苦手だな」
「すまん」
昔から固有名詞は簡単に覚えられんのだ。
「まあ、普通だな。この間付き合って一年目を迎えたけど、毎週どこかしら遊びに行っているよ。先週は二人で落語を見に行った」
「何が普通なのかはわからんが、良さそうで何より」
「笑うと可愛いんだよ、写真見るか?」
「いいよ別に。客観的に見て美人の部類に入ることは知ってるし」
「春樹の主観も気になるところだがな」
「ノーコメントで」
「ちっ。あ、そういえば」
「なんだ」
「吉岡が合コンのメンツ集めてたぞ。彼女がいる俺にも声がかかってきたぐらいだから相当人数合わせに苦労してるみたいだ。行ってあげたらどうだ」
「彼女がいない俺に声がかかってないってことは、そもそも俺はお呼びじゃないんだろう。行かん」
仮に呼ばれたとしても行かんが。
「まあ、春樹は気難しい話ばっかりして女の子困らせるもんな。俺が幹事だったらその光景が面白いから呼ぶけど。普通は呼ばないな」
「ふん」
岡田はなんの悪気もなしにこういうことを言う。そんな奴なのだ。
「いじけるなよ。春樹はルックスが良いからってのもあると思うぜ」
「どうだか」
「新しい彼女いらないのか?」
「俺はこれからカブトムシの世話で忙しいんだよ」
「一か月に一回くらい虫かごの土変えて、たまにきりふきするだけだろ」
「詳しいな」

「美奈ちゃんだろ」
文脈的に合わない固有名詞が出てきた。
「カブトムシにそんな名前はつけないだろ」
岡田の創造した新文脈に合わせるとすれば、こんな返答でいいだろう。
「春樹」
岡田が一瞬真剣なまなざしになる。たまにこいつはこういう目を見せる。
「吉岡が春樹を誘わなかったのは、春樹が気難しいやつだからでも、ルックスがそこそこ良いからでもないと思うぜ」
文脈は定まったが、今度は適当な回答が思いつかない。
「春樹を見りゃ分かるよ。美奈ちゃんが未だに忘れられていないのを。俺とか、吉岡だけじゃない。皆、お前が心配なんだ」
「いらん心配をするな、と皆に言っておいてくれ」
「なら、早く元気になって皆の前に顔を出せ。もう3か月も一人で行動しやがって」
「わざわざ俺の家までそれを言うために来たのか」
「ふっ、友達思いだろ」
岡田よ、それは自分で言うことではない。

「じゃあ、俺は帰るよ。長居するのも悪いし。また大学でな」
「ああ」
座っていた岡田は立ち、玄関へ向かう。
「春樹」
岡田は、靴を履いてドアに手を掛けたところで、こちらを向いた。
「なんだ」
「美奈ちゃんが春樹を振ったのには、本当は何かわけがあるんだろ。「冷めた」なんて嘘だよな。そもそも二人は一週間前に」
「そのための3か月だった」
「え?」
俺に話を遮られた岡田は、少し驚いていた。
「お前の想像通り、どうやら色々わけがありそうだ」
「じゃあやっぱり!」
岡田の声が部屋に響いた。この部屋防音弱いから隣からお咎めが来なけりゃ良いが。
「だが、まだ確信は得られていない。俺の解釈違いの可能性もある」
「じゃあどうするんだよ」
「これから行動に移して確かめるのさ」
「春樹…」
「明日から行動に移すってときに、なんてタイミングで来てるんだお前は」
「へへ、やっぱそこは親友パワーかな」
「なんてダサい男だ」
とても大学三年生が言う言葉ではない。

「春樹」
「なんだ」
岡田は、真剣な目でこちらを見ながら問う。
「あのめんどくさがりな春樹がなんで3か月も色々調べたうえに、行動にまで移そうとする?」
確かに俺はめんどくさがりだ。無駄なことはしたくないし、カブトムシの世話だって世界一怖い母さんの頼み以外なら断っている。そもそも、違和感があったにしろ、自分の振った女のことを気にして3か月もあれこれ調べるなんて正気の沙汰ではない。一歩間違えなくてももはやストーカーと呼ばれてもおかしくない。めんどくさく、自分の社会的地位が落ちそうになる、こんな事をするのには、それなりの理由がある。
「好きなんだ、美奈が」
俺は、岡田よりもよっぽどダサい男だ。
「今日はその言葉を聞くために、春樹の家まで来たんだぜ」
俺と違ってこいつはかっこいいな。

「じゃあな、手伝えることがあれば、俺に何でも言えよ」
「ああ」
岡田は、ドアを開けて俺に言葉を残して出ていった。最後までかっこいいとはな。
さて。
岡田が去って、静かな部屋の中で俺は一人、またあの日のことを思い返していた。

「ねえ、別れて」
カフェの椅子に座り、メニューを伝えた店員がカウンターに戻った途端、
美奈は俺に言った。
「別れる、とは」
俺はその場においての「別れる」の定義を彼女に聞いた。
「四年以上続いている私たちの男女関係を解消して、ということよ」
普段は常人の半分くらいの速さで流れているであろう俺の遅く、だらしない脈が、その時は常人の三倍くらいは早くなっていたのではないか。

俺は、ふとその場で美奈に一週間前に言われた言葉を思い出していた。

「私は、あなたとずっと一緒にいたい」
二月の寒く、暗い海を見ているときに微笑みながら美奈は俺に言った。
「俺もだ」
互いに視線が交差し、自然と顔が近づいた。
もう慣れたはずのキスは今までのどのキスよりも、幸福を感じられた。

「お待たせしました」
ブラックコーヒーを二つ運んできた店員の声で、俺は一気に我に返った。
俺と美奈のもとにカップが置かれる。
「ごゆっくりどうぞ」
店員が再びカウンターに戻ったところで俺は美奈に聞いた。
「理由を聞いてもいいか」
彼女は、すぐに、冷静に、口を開いた。
「冷めたの」
美奈は俺に真っ直ぐ目を合わせながらはっきりと言った。
「そうか」
としか返せなかった。
それを聞いた彼女はテーブルに置かれたコーヒーに一口もつけず、席を立ち、カフェを出ていった。
しかし、俺は見た。
彼女が、席を立ち出口の方に振り返る瞬間。
泣いていた。
その後は彼女の背中しか見えなくなったが、俺は確かに脳裏に焼き付いた。
彼女の涙が。
四年間の付き合いで、初めて見た彼女の涙は、俺にとって異質なものだった。

俺の勝手な思い込みかもしれない。だが、一週間前の美奈の態度、そして、彼女の涙を見て、俺は動かずにはいられなかった。
俺は、足元の、カブトムシの幼虫が入っている虫かごを視線を落とした。
今は5月。ネットで調べたものによるとあと数日程度で蛹になるらしい。

あの一週間の間に何があったのか。
俺は、ただそれを明らかにしたい。

カブトムシの世話よりは、めんどくさいものではない。【終】


【作者追記】
二年前くらいに書いたやつが見つかったので、載せてみました。
下書きもくそもなくライブ感で書いたのが丸わかりですね。
でも、個人的にこの行き場のない勢いみたいなやつは割と気に入ってます。今はもう失ってしまったものなので。
まあ、過去の自分への供養ということで。内容は目をつぶってください。
ご覧いただきありがとうございました。

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