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演歌リングを買うまでの紆余曲折

演歌を歌う時が私にも来たかもしれない。

↓演歌とは何ぞや、という方へ↓



2年と少しの期間、応援しているグループの突然の解散発表。今は「悲しい」という感情よりも「衝撃」の方が大きく、自分の中で受け止めきれていない。
解散後、個々で活動するのか・別グループを作るのか・事務所を退所するのか等々、まだ不明なことが多い。また何かしらの形で推しに会えれば…とは思うが、それは推しが決めることで私にはどうすることも出来ない。

思えば短い2年だった。

友人に誘われたフリーライブでまんまと(友人よりも)ハマり、毎週のように会いに行った時期。
自分史上最高のワンピースでライブに行ったこと。
通ううちにそこで大切な友人が出来たこと。
推しカラー・グループが出した曲っぽいリップを買ったこと。
最前で見たワンマンライブ。
リアコになって思い悩んだこともあった。

推し活とは恐ろしくも侮れないもので、私の人生丸ごと変わった感覚がある。もちろん推し以外の要素で変わったこともあるが、推しが人生に与えた影響はあまりにも大きかった。

沢山楽しませてもらった。沢山幸せにしてもらった。「なんやコイツ!!!!!」と思ったこともあったが、それでも過ごした時間のほとんどが幸福なものだった。
解散したら、私はどう過ごせば良いんだろう。もし推しが表舞台に出なくなったら、どうやって幸せになれば良いんだろう。



これを「演歌」として良いのか今でも正直分からない。
ただ、20と数年生きただけの小娘からすると、これも立派なひとつの「別れ」だ。

私の名前、「春田」にも、本名にも「春」が入っている。春は出会いと別れの季節で、沢山の出会いと別れを経験してほしいから、という意味が本名には込められているといつだったか母から聞いた。その意味が私も好きで、自問自答ガールズとなった時に「春」がついた名前を名乗った。
「別れ」は私の人生そのものなのだ。



実は3月にも、ひとつ「別れ」を経験していた。

祖父が亡くなった。

ここ数年は闘病しており、余命宣告もされていたことから覚悟はしていたが、闘病しているとは思えないほどいつ見てもピンピンしていたから、自分にとってかなり急な出来事だった。

初孫だったこともあって、かなり可愛がってもらった自覚がある。幼い時、毎週日曜日になると某ファストフード店に行って一緒に朝ごはんを食べた。私が眠るまで手を繋いで寝たこともあった。成長するにつれて話すことも少なくなったが、大人になってからも時々家に遊びに行っては某メッセージアプリの使い方を教えたりしていた。

最期は穏やかだった。家族に見守られながらの最期だった。最後に会った時から1ヶ月しか経っていなかったのに随分痩せて、意識も朦朧としていた。声をかけたら目がこちらを向いたので、多分私が来たことには気づいていたと思う。いつかの時みたいにずっと手を繋いでいた。

葬儀の時も、終わってからも、しばらくは寂しさや悲しさからふとした瞬間によく泣いていた。でも時が解決するとはその通りで、今は普通に過ごせている。嘘、本当は時々思い出しては泣くこともある。それでもいっときに比べると気持ちは落ち着いた。



この時も(勿論気持ちが落ち着いてから)「演歌歌うなら今なのかな…」と思ったけれど、何となく「まだかな…」と思っていた。まさか半年近く経ってもうひとつ別れを経験することになるとは思わなかった。

自分が演歌を歌うなら、バッグじゃなくてリングが良いなと思った。今持っているバッグにこれといって不満がないから、というのもあるけど、祖父が亡くなる前後に「これ良いな」と思ったリングがあった。

MESSの「Lonely」と言うリング。

「大衆の中で一人輝くことを恐れないためのジュエリー」がコンセプトのリング。

元はインスタで偶然流れてきたブランドだった。唯一無二のデザインに惹かれて保存→フォローのムーブをかまし、以来定期的に見ていた。
祖父が亡くなって少し落ち着いた後、改めて見たらそのコンセプトに強く惹かれた。祖父がいない世界でこれから生きていかなくちゃならない。そんな世界でこのリングはお守りになってくれそうだな、と感じた覚えがある。

だが悲しきかな。その時の私は人生夏休み中の身。とてもじゃないが、リングにこの値段…と躊躇し、購入を見送った。



そうこうしている間に2週間で仕事を辞めたり、応援していたグループのラストライブがあったりした。

気持ちの面で落ちに落ちた中でのラストライブだったので、本気で楽しめるか心配したし、そもそも行くかどうかも悩んだし、実際Twitterで弱音を吐いたりしたが、フォロワーさんから温かい言葉を頂いたり、「行っちゃえばどうにかなるか」と思ったこともあり、しっっっっかり楽しんできた。

もっと感情が乱されるかと思ったが、終わってみると案外あっさりしたもので、まだまだ続きそうな雰囲気さえしていた。
少し時間が経って、メンバーのインスタが消えたりユーザー名が変わっていくのを見たり、休日にオタ友と会うことが無くなったりしたことで、ようやく「終わっちゃったんだなぁ」と実感しているところ。

危惧していた「推し活動するか問題」は、今のところ何かしらの形で表に出て活動するみたいなので安心、と思っていたが、自分の中で何だか「応援したい」という気持ちが薄れていることに気がついてしまった。



彼の配信を見る度に、悲しくなる自分がいる。

仕事を短期間で辞めてしまった引け目もあるんだと思う。
推しも推しを応援する人も、皆必死で生きている。そこに学生も社会人も関係ない。でも自分は?私は何も頑張れていない。何かを成し遂げた訳でも、成し遂げる為に頑張っている訳でもない。苦労をしていない。そんな自分が、推しに一方的に元気をもらって良いんだろうか、と思ってしまって、そこまで頻度が高くない配信を見れずにいる。

もうひとつは、私はグループで歌って踊る推しが好きだったと気づいてしまったから。
「配信」という形式上、どうしてもコメントが無いと成り立たないもので、時には馴れ合いみたいになることもある。言葉を選ばずに言うとそれが嫌だ。自分がリアコ・ガチ恋であることは一旦置いといたとしても、嫌だ。私が見たいのは、ステージで、パワフルな歌声とパフォーマンスをする推し。
オタクってどこまでもワガママなんだと思う。



先日、推しのバースデーイベントがあった。
上記諸々の理由からこれまた楽しめるか不安だったが、これまたしっかり楽しんだ。約1ヶ月ぶりに会う推しはやっぱり格好良くて、キラキラしていて、ずっとステージに立っていてほしいと願うと同時に、「もう、いいかな」とも思った。

本当は気づいていた。自分の気持ちがラストライブで落ち着いていたことに。いつも見返していた自分のインスタのストーリーのハイライトを見ることがなくなっていたことに。

私がいなくても、彼は幸せにやっていける。気づかないようにしていただけで、彼の幸せに私は必要ない。私も充分に幸せをもらった。もう一人でも大丈夫。

そういうことで、彼のファンを辞めることにした。オタク風に言うと「降りる」ことにした。



ファンを降りる時ってもっとドロドロした、悲しみや憎しみに溢れているものだと思っていたが、そうでもないらしい。ましてやリアコになったからには推しのことをそれこそ刺しかねないレベルだと思っていた。

だが実際には何とも、寧ろ少し晴れやかな気持ちですらある。オタク用に使っていたインスタのアカウントを消し、ロック画面にしていた画像を変えても尚、何とも思わなかった。

もう彼のことで心を乱さなくていい。もう彼のいる現場に行かなくていい。楽しくやっていたつもりだったけれど、そう思うということは、どこかで負担や義務になっていたんだと気がついた。

ふと、改めてMESSの「Lonely」リングの販売ページを見た。「大衆の中で一人輝くことを恐れないためのジュエリー」。何となく、私というより推しにぴったりなコンセプトだなと思った。
降りたファンがごちゃごちゃ言うのも何だけど、出来る限り推しにはステージに立ち続けて欲しい。一人になったとしても輝き続けてほしい。

でもこのリングを着けるとしたら私。私はこのリングを着けてどういう気持ちでいたいんだろう。
大事な祖父を病気で亡くした。恋にまで落ちた推しを応援することを辞めた。何もかも無くしたと言うには程遠いけど、「別れ」を経験した私の「これからを生き抜く力」になってほしい。
これが、今の自分の一番素直な気持ち。



MESSは散らかった様子を意味します。

散らかった部屋や散らかった机の上は
本当に綺麗にしなければいけないのか。

世の中の価値観に捉われず
自分の価値観で物事を考える
そんな生き方ができるような
ジュエリーやグラフィックを制作しています。

MESS JEWELRY & GRAPHIC

ブランド名にもなっている「MESS」は「散らかった様子」を表しているらしい。散らかったものは片付けなさい、片付けていないものは例え大事なものでも捨てる、と言われて育った私にとって「散らかった部屋や散らかった机の上は本当に綺麗にしなければいけないのか。」という言葉は衝撃だった。

今でも正直、片付いている・整っているに越したことはない、と思う。だけど、散らかっていたって良いんだ、と思えたことで、ここ最近の自分の感情の変化や上がり下がりが許された気がした。

祖父が亡くなったことへの寂しさや悲しさも、推しへの愛情か執着か諦めか分からない感情も、そのままでいいんだ。

奇しくも、Lonelyを購入したその日の前日は、2年前に私の愛おしい靴「jeffrey campbell」のパールヒールローファーを購入した日だった。



色々思考を巡らす間もなくその子は家に来た。

いつも画面で見ていたその子は、実物も本当に可愛くて泣いちゃいそうだった。焦がれに焦がれたその子が家にいるのが何だか信じられない気持ちもあった。

着けるなら左手の人差し指が良いなと何となく思っていた。実を言うと、サイズが合うかな…と心配していたけど、大きいサイズを選んだおかげもあってぴったりだった。
嵌めてみて、やっと「私のところに来たんだ」と実感した。


TwitterやInstagramで「届いたよ!」報告をしたところ、ありがたいことに沢山反応を頂いた。届いたリプライやメッセージに返事をしていきながら、「このリングに似合う人になれるように頑張らないとな」と思うようになった。そうして初めて「演歌○○」と呼ばれるものの力を感じた。

ここで注意してほしいのは、みなさん「絶望、失望、悲しみを埋める代償行為」で購入しているわけではありません。こんな困難があった、受け止められない。そんなとき、「これからの人生を楽しく生き抜くためにいいバッグを買おう!」というネガティブの先にあるとてもポジティブな気持ちが作用しているのです。
自分で覚悟を決めて好きなバッグを買った方々は、「あのときはしんどかったけど、いい相棒(バッグ)を手に入れたことでこれからも頑張ろうと思えた」とおっしゃいます。

『「一セットの服」で自分を好きになる』85ページより引用

私が今回購入したのはリングだが、まさに同じ現象が起きている。
きっかけは(どちらかと言えば)ネガティブなものだったし、実際買うまでも「みんなからの反応が欲しくての「欲しい」じゃないのか」「辛かったことや悲しかったことをダシにしようとしているんじゃないのか」と悩んだりもした。でも、noteにまとめていくうちに「これからを生き抜くためにこの子がいてほしい」と思っている自分に気づくことが出来て、実際手にして、不思議と「これから頑張ろう」と思えた。

実際、頑張らないといけないことだらけだし、頑張らないといけない場にこのリングを着けることが出来るかは分からない。でも、「私にはこの子がついてる」と思うだけできっと大丈夫な気がする。

可愛い〜!!!!!

私の力になってくれると嬉しいな。

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