人生に必要なのは諦める力か信じる力か
年を取るにつれて、諦めることや信じること自体を意識することが増えた。
信じることをしなければ、裏切られることもないし、
諦めることで現状に満足し、幸せに生きていける。
確かにそれは事実で、上をみればきりがない世界では、そうでもしないと生きていけないだろう。
しかし、わが身を振り返ってふと思う。
このまま、死んでもいいのか。
「今のままで満足だ」と自分に言い聞かせながら生き続けるなんて、死んでるも同然なのではないか、と。
だが、諦めるのに慣れてしまった人間が、何かのために生きるのは、難しい。
なぜなら、そういう人間は信じる力を失っているからだ。
そもそも、信じる力とは何か。
言い換えれば、自分の中の常識を疑わない力である。
例えば、年収が高いほど幸せになれると思っている人は、自分の年収を上げるために生きることができる。
日々の業務や、勉強にさえ幸せを見出すことができる。
一方で、諦める力とは、自分の中の常識を疑って、都合のいい見方で物事をとらえる力である。
先の年収の例でいえば、まず現実的に収入が増えた時のシミュレーションをしたり、高収入の人を観察してみる。
すると、自分が本当にしたかったことは年収を増やすことではないと気付くのだ。
どういうことかというと、年収が上がったことによって得られる優越感や、達成感、自由、自己肯定感が目的だったと気づくのだ。
そして、これらは相対評価で、きりがないので現状で満足するのが合理的である
考えてみると、日本人のほとんどが、1000年前の権力者より豊かな生活を送っているのに生活に不満を持っているというのはおかしいことだ。
ここまでくれば、気づくだろう。
信じる力から、諦める力は一方通行であることに。
一度諦める力を手にしてしまえば、身の回りのすべての物差しの存在意義を失わせることができる。
そうなると、信じられるもの自体がなくなってしまうのだ。
残るのは、絶対的なものなど何もないという事実だけ。
一見、諦める力のほうが発展した考え方のように見えるが、実際に幸せそうなのは、信じる力を持った人たちである。
宗教や信念などで、足場が固められている人間は、強い。
そのために命を捨てることができるほどだ。
しかも、やれることはやったという達成感とともに死ぬことができる。
僕が今感じるのは、信じる力を捨ててしまった後悔だ。
これは、常識に縛られて行動する人々を心の中であざ笑っていたことの罰か
それとも、新たな価値観につながるための修行のような時期なのか。
そもそも、この考え自体が未だ常識に縛られている証拠でもある。
僕は信じる力を持っている人と話すのが怖い。
どうしても、こちら側に引きずり込んでしまいそうになる。
そっち側に引き上げてほしいから。
もし僕に子供ができたとしたら、諦める力を与えるべきだろうか。
答えは、まだ、出ていない。