初めてのnote

noteをはじめてみた。俺は文章をまともに書いたことがないので読むに耐えない文章になっていることだろう。まず、人様に見られる可能性のある文章の中で”俺”などという一人称を使っている時点で素人なのだろう。(俺は”僕”などという一人称を使うほどかっこつけるのが得意ではないので俺にさせてもらう)


なぜnoteをはじめたのか

なぜ俺がnoteをはじめたのか。
なにか書きたいことが浮かんだのかもしれないし、誰かに憧れたのかもしれない。感傷的になっただけかもしれない。しかし、ただ1つ明確に言えることは俺もなぜはじめたのかはわからない。俺はという人間は自分にあまり興味がない。
というのは嘘でめちゃくちゃ自分が好きでかわいいのだ。そんな自分を変えたいという気持ちが少しあったのかもしれない。


自分という1人の人間

俺はとにかくプライドが高い。自分がかわいくて傷つきたくないのだ。ではなぜ能力も大して高くないのにプライドだけが高いだけの虚構人間ができてしまったのか。それは生まれつきもっていた少しの才能の量を見誤ってしまったからである。俺は生まれながらにして勉強が人より少しだけできた。周りの大人には持て囃され自分でも能力を過信し、慢心した。テレビに映る東大生や才能にあふれた芸能人たちと同じであると勘違いしてしまった。
 そして例えがたいほど高いプライドが形成されてしまったのだ。ある程度の年数を生きた人ならわかるはずだが、勉強をせずにいい点を取れるなんて虫のいい話はない。しかし才能が溢れていると信じてやまない俺はプライドで作られた実在しない道を歩んできてしまった。しかも、引き返すことができないところまで。いや、実際は引き返せるのかもしれない。そこから道を作ることだって可能なはずだ。だが俺はそれをしない。新しい道を歩むことは今までの道を否定するのと同義である。この期に及んでプライドが邪魔しているのだ。このプライドに苦しめられているのだ。今までも、そしてこれからも。
  非常に情けなく醜い生き物であると俺も自分自身でも思う。ただこの程度ならまだ救いようがあるが、俺はもっとみじめな人間だ。あろうことかこの苦しみを苦しみとして受け取らず快楽にして自分を肯定しているのだ。
  俺は怠惰な人間でありながら怠惰な人間が好きだ。怠惰が理由で苦しむ人間をみて、この人は人間味があるなと思ってしまう。

にんげん‐み【人間味】
人間としての豊かな情緒。また、人間らしい思いやりや、やさしさ。人情味。

goo辞書


 人間味とは情緒や思いやりのことで苦しむことでも自分を肯定することでもないのだ。
 ただ、俺は俺という1人の人間に存在する価値を与えたかっただけだ。こうでもしないと存在できないのだ。俺は非常に弱い人間だ。こんな弱い人間を支持するのは弱い人間を見て安心したい同族だけである。本質的に強い人間ならこんな文章に出会うことがないし、途中で読むのを放棄しているはずだ。


 俺は怠惰側の人間なので今後定期的にノートを書くなんてことは絶対にしない。神に誓ってもいいだろう。ただ、この拙い文章に共感してくれる人が1人でもいれば、俺は無理して自分を肯定せずとも存在していいと思えるのかもしれない。

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