ルートヴィヒの憂鬱(続)
先日、娘との対話の中で言語の常識を覆された僕だった。今一度、深く考えてみよう。僕の主張は次のとおりだ。
言葉は指示対象を持たない
例を挙げよう。次の一文を見てほしい。
見ろよ。そこに犬が寝てるぞ。
上の文章を見て、どのような光景が想定されるだろうか。
①彼が示したその場所に、プードルやマルチーズが寝ていた。
あなたが僕と同じ価値観の元に生きているのなら、思い浮かべたのは凡そ上のような光景であるはずだ。しかし、本当に有り得る解釈はそれだけか?例えば、次の光景を想像することは不可能なのか?
②彼が示したその場所には、ホームレスが寝ていた。
例えば発話者が特権階級に属し、ホームレスを見下していたとすれば、彼の言う「犬」が①の「犬」と同一のものを指していると言うことなど出来ないだろう。では、次のような光景はどうか?
③彼が示したその場所に、彼に殴り倒された警察官が転がっていた場合。
彼が強盗であれば、上の状況を想像することも可能だ。
昨日、犬を見たよ。
僕は、社長に逆らえない。まるで犬だ。
彼女は俺の犬になった。
これら三つの文章を見ても、まだあなたは「犬」という単語に特定の意味があると主張するのか?
ナンセンスだ。プラトンの主張した、「犬」がもつ完全なる理想型若しくは原型とでも呼ぶべきもの、犬のイデアなどないのである。彼は間違っていたのだ。
だから、僕が以前書いた「1はいつでも1だ」という命題は間違っていた。1クラス、1ダース、1リットル、1メートル。全て1だが、「同じ」1ではない。数字ですら、状況によって如何様にも捉えられ得る。どこを探しても、「本当の」1はないのだ。
世界は一つだ。
僕は一人だ。
このような全く異なる文脈において同じ「1」を用いながら、話し手と聞き手が共通の理解に至っていると、どのようにしてあなたは主張するのか。
文脈判断だ。
とあなたは言うかもしれない。しかし、その文脈をどのように判断するかなど、どうしてあなたは知っているのか。言い換えるなら、文脈判断に対する判断を、あなたはどのようにして行っているのか。この問いは、僕達を無限後退へと導きはしないか。
単語の定義についても、同様のことが言える。例えばAとは何だろうか、と僕は辞書を引く。
Aとは、BがCすることである。
これは、僕がBとCについて既に知っている場合のみ、有効な説明だ。しかし、Bとは何か、Cとは何か、と定義の定義へ遡っていくと、その行き着く先はどこか。あなたは、全ての単語がここから始まったというような、究極にして絶対の定義があると主張するのか。
僕はそうは思わない。
言語の習得において、原初の定義など存在しない。言語の土台は、極めて不安定だ。故に、言語が、個々の単語が、何かを指示することなど、定義することなど不可能である。
しかし、僕たちは実際、言語により意思疎通を測っている。言葉が何も指示していないのなら、僕たちは実際、動物のようにギャアギャア鳴いていいるだけなのだろうか。
そんなことはない、と僕は言いたい。言語が指示対象をもたない以上、我々が同じ単語を同じ意味で使用しているということは出来ない。しかし、そう信じ、思い込むことは出来る。
言語によるコミュニケーションが滞りなく進行すること、それ自体が言語の目的である。
さて、僕はここまで、次のように主張してきた。
言葉は指示対象をもたない
だが、例外があるのだ。でも、それを書くのは次にしようと思う。今日はこの辺で筆を置くことにする。
機会があれば、また。