名は体を表す…のか?
僕は今、東京の神田にいる。
一緒に来ている部長は、三十年程前こちらに住んでいたらしい。
「懐かしいなあ」
なんて言いながら、嬉しそうにしている。最近、東京への出張はすっかり少なくなったそうだ。
この辺りは自分の庭同然ということで、夕食の店選びはお任せすることにした。関西といえばうどんだが、東京では蕎麦が美味しいという。自信に満ちた足取りで歩いていくその後ろを、僕は追いかける。
正直なところ、三十年前の店が果たして今もあるのか、と少し心配だった。でもそれは杞憂に終わり、如何にも和食屋然とした店の前に着いた。横引きのスライドドアかと思いきやそれは自動ドアで、近づくとするするする、とひとりでに開いていく。東京は進んでるな、と変なところで感心した僕である。
部長によれば、東京では酒を飲んだ後、締めにそばを食べるという。何とも上品だな、と感じた。
さて、メニューに目を走らせると、見たことのないメニューが目に飛び込んでくる。
『天抜き』
「これ何ですか?」
「天ぷらそばのそば抜きやね」
「どういうことですか?」
聞いた瞬間は意味が分からなかったが、要は天ぷらを天つゆにつけて食べるだけの話だ。因みに、海老が大ぶりでものすごく美味しかった。
釈然としないのは、その名前である。天抜きという名前であれば、抜かれるのは天でなければならないはずだ。そばが消えているのは、おかしくないだろうか。そばの側からすれば、もらい事故じゃないだろうか。あなたは、そばが可哀想に思わないだろうか。僕は思わない。
そして、
『小田巻き』
「これは?」
「小田巻きって聞いたことない?」
「生まれて初めて聞きました」
「嘘やん。ほんまに?」
知らないものは知らないのだから、仕方ない。
「で、どんな感じの食べ物なんですか?」
「こう、そばを卵で巻いたやつ」
部長は手首をくるくるくる、と回転させ、太巻きを作るようなジェスチャーをする。つまり、伊達巻のような見た目をしているのだろうか。それとも、う巻きの鰻が、そばになった感じだろうか。いずれにしても、味の想像がつかなかった。
折角なので、頼んでみようということになった。忙しそうにせかせか動き回っている店員さんを捕まえる。
「すみません。小田巻き下さい」
「ちょっと時間かかっちゃいますけど、よろしいですかぁ?」
「どれくらいかかりますか?」
部長が訊く。
「三十分くらいですかねぇ」
「え?そんなにかかるんですか?まあ、分かりました。お願いします」
「はぁい」
ぱたぱたぱた、と足音を立てながら厨房に向かう店員さんの背中を見送った後、僕は部長と、今日の打ち合わせや今後の予定について話し始めた。最近、仕事が終わっても仕事のことを考えている僕がいる。何だかなぁ。
あれから、三十分経過した。小田巻きは、まだ来ない。
「結構時間かかるな」
「お客さんも増えてきたし、大将も忙しいんじゃないですか?」
「まあ、せやろな」
「三十分くらいって言ってましたし」
「うん」
さらに十分経過。
「いくらなんでも遅ないか?」
「まあ、でも三十分っていうのは目安ですから。四十五分くらいかかってもおかしくないんじゃないですか?」
「せやな」
五分後。
「大変おまたせしましたぁ。小田巻きです」
「「え?」」
店員さんが机に置いたものを見て、僕と部長は同時に疑問の声を上げた。
何故ならそれは、どう見ても……
茶碗蒸しだったからだ。
「これが小田巻きですか。想像してたのと随分違いますね」
「いや、これ注文間違ってんちゃう?」
「茶碗蒸しにしか見えませんね」
「うん」
不可解に思いながらも、レンゲで中身を掬い、それぞれの取皿に分けて食べ始める。味はやっぱり茶碗蒸しだった。
「茶碗蒸しですね」
「やっぱり間違ったんちゃうかな。それとも後から来るんかな」
「他のお客さんのが来ちゃったのかもしれませんね。でも、これはこれで美味しい……ん?何かうどん入ってますね」
「え?」
何故かうどんが入っていた。その時近くを通った店員さんを、部長がすかさずつかまえる。
「すみません」
「はい?」
「これ、何ですか?茶碗蒸し?」
「小田巻き頼まれましたよね?うどん入ってませんでした?……ちゃんと入ってますね。小田巻きです」
後で知ったことだが、小田巻きとは当て字であり、元々の漢字は「苧環」である。うどんが麻丸の紡ぎ糸のように見えたことから、この名前がついたとか何とか……。さらに言うと、大阪の郷土料理である。因みに部長が小田巻きと勘違いしていたのは、その名ずばりの、そば巻き寿司という食べ物で、よくよく見るとメニューに載っていた。
小田巻きという名前に対する思い込みと部長の記憶違いにより、僕は東京のそば屋で、うどんが入った茶碗蒸しという大阪郷土料理を食べることになってしまったのである。何もかもが噛み合っていない。こんなことってあるんだなぁ。こうして記事のネタになったから、いいんだけど。
教訓。
聞いたことのない料理を頼むときは、思い込みは避けた方がいい。店員さんに訊くのが、一番良い。
以上。