ほうき森の仲間たち series2
ほうき森で暮らすロバのロバタはゴロリンドりんご農園の農園夫。どんぐり新聞社の記者、キツネのジーポとは幼い頃からの親友。森の仲間たちと森で起きる様々な出来事を力を合わせて共に生きていくことを一生懸命考えながら乗り越えていく物語です。
vol.1
ロバタは長い物語を読み終えたあとに、大きなあくびをひとつしました。
大して面白くもない物語を2日も掛けて読みふけるほどロバタは降り続く雪のせいで退屈な毎日を過ごしていたのです。
読み終えた数冊の本を本棚に仕舞うとライティングデスクの上に置かれていた金色の蓋付きの丸カンに目が行きました。
中を覗くと底には赤いキャンディがひとつ
ロバタはそれを口の中に放り込むとフフッと小さな笑い声をあげました。
「グランベリー味か…懐かしいなぁ」
幼い頃「森のお話し会」でよく口にしたグランベリージャムやバタークリームの味は今でもロバタには懐かしい思い出の味がしました。
「そう言えば…ジャグペルお爺さんが亡くなってもぅ、何年経つのだろう…。
フクロウのジャグペルお爺さんの話す森の昔話や不思議な物語は本当におもしろかったなぁ」
ロバタはストゥブの前の長椅子に寝そべると焚べた薪の爆ぜる音を聞きながらそっと目を閉じました。
覗いてはいけないものがあるのだよ…
そう、この森の中にも。
いいかい?
見てはいけないものを見て怖い思いをするからじゃないんだよ。
邪魔をしたり誰かを驚かせたりするからじゃないんだよ。
そうっとしておくことが一番いいことだってあるってことさ。
紅く揺らめくランプの下で幼いロバタや狐のジーポたちはグランベリージャムを口の端につけたまま黙って頷きました。
「さぁ、今夜のお話し会はこれでお終いじゃよ。
テーブルの上のお皿を片付けておしまい」
フクロウのジャッグペルお爺さんはそう言ってランプを高く掲げ、部屋の中央に置かれたテーブルを照らしました。
それからジャッグぺルお爺さんは古いオルガンの鍵盤の上に飛び乗るとお話し会の終わりにいつもそうするように「すずらんの花咲く丘」の楽譜を開き静かにオルガンを弾き始めるのです。
ロバタたちは皿に残ったスコーンやカヌレの焼き菓子を口いっぱい頬張った後にジャッグペルお爺さんの弾くオルガンに合わせて歌を歌い月に一度の「森のお話し会」は終わるのでした。
ランプの灯りに照らされた幼い頃の森の仲間たちの顔が浮かんでは消えロバタは
懐かしさと共にジャッグペルお爺さんのお話しが不思議に思い出されるのでした。
vol.2
午後になってようやく降り続いた雪も止みロバタは少し外の風に吹かれたい気分でした。
農園を出てしばらく歩くと雪を被ったメタセコイアの大木がまるでお城の高い塔のように長く続く並木道がありました。
その並木を通り抜け右に行けば坂の上の病院に続くベロだし峠の坂の入り口に、左に折れ緩やかな坂を下っていけば春には一面に桜色の手毬花が咲き誇こる野原が広がっていました。
今は真っ白な雪野原に樹つヒマラヤ大スギが厳しい冬の景色を際立たせていました。
雪野原を過ぎ、また少し歩くと白樺の林に辿り着きました。
その林を通り過ぎようとした時にロバタはふと足を止めました。
「あんな所に…
誰か住んでいたっけ?」
こんもりと茂る、白樺の薄暗い木立の奥に、大きな古い洋館が見えました。
その洋館の窓からは赤々と灯りが漏れ煉瓦造りの立派な煙突からは薄紫色の煙も立ち登っていました。
気がつけば辺りはいつの間にかまた、ちらちらと雪が舞い始めています。
「これは不味いな…急いで帰らなきゃ」
ロバタは踵を返し今来た道を戻り始めた時です。
どこからともなく美しいチェロの調べが聴こえたような気がしました。
風の音…?
耳元でヒュルヒュルと風が歌っていました。
いや…
ロバタは耳を澄ませました。
「風の音なんかじゃない。
誰がチェロを弾いているんだ」
ロバタは辺りを見渡しました。
「なんて美しい調べなんだろう…」
ヒュルヒュルと歌う風はチェロの響きと混じり合いロバタの心を震わせました。
そして気がつけばロバタは木立の中の大きな洋館の前に引き寄せられるように立っていたのです。
vol.3
雪はいっそう激しく振り始めていました。
困ったなぁ…
ロバタは洋館の軒下で雪宿りをしながら灯りの漏れる窓にそっと目をやりました。
覗いてはいけないものがあるのだよ。
そう、この森の中にも …。
遠い記憶の中で聞いたフクロウのジャッグペルお爺さんの声が冷たい北風にかき消されて行きました。
ロバタはかじかんだ手を擦り合わせながら息を吐くとその手の中に小さな焚き火が燃えているような暖かさを感じました。
けれどそれは一瞬で燃え尽きるマッチの灯のようなもの…
ロバタの手は瞬く間にかじかみそこにじっと立っていることさえ我慢出来なくなっていました。
暖かな灯りの漏れる窓…
絶え間なく聴こえてくるチェロの美しい調べ
ロバタはとうとう我慢出来ずに洋館の白い窓枠を掴かむとうんと背伸びをしました。
部屋の中は大きな暖炉の中で赤々と薪が燃えています。
床には見事な手織りのペルシャ絨毯が敷かれゴブラン織りの長椅子には向こう向きに誰かが座っています。
それはよく見ると真っ白な毛色をした一頭の鹿でした。
先程から聴こえていた美しい調べはその白鹿が奏でているチェロの響きでした。
その姿があまりに美しくロバタは暫く冷たい窓枠に掴まり立ちしていましたがとうとう堪えきれずに床にかかとをトンとぶつけてしまいました。
「誰?」
「ご、ごめんなさい。
私はゴロリンド農園のロバ…ロバタと申しまして…
けっ、けっして怪し者ではありません。」
ロバタの口は寒さでワナワナと震えて上手く言葉がでません。
白い鹿はロバタのいる窓に近づくと
「おやおや、また雪になりましたね」
そう言ってロバタに微笑みました。
「す、すぐにお暇しますから」
ロバタは慌ててそこを立ち去ろうとした途端に入り口の凍った木のデッキに足を滑らせてズドーンと転んでしまいました。
「イタッ、タタタ」
「大丈夫ですか?お急ぎでなければ雪が止むまで中で暖まったらどうですか」
白鹿はいつの間にか入り口のドアを開けロバタを部屋の中に招き入れました。
vol.4
館の中に足を踏み入れた瞬間にロバタはあっと小さな声を上げました。
館の重い扉が閉まる勢いと共に雪交じりの冷たい北風が入り込み譜面台の楽譜をパラパラと部屋中に舞いあげてしまったのです。
ロバタは慌ててそれを掴もうと左右の手を動かしてもその手は虚しく宙を掴むだけで楽譜はひらひらと床に舞い落ちてしまいました。
ロバタが床に散らばる楽譜を拾いあげようと腰をかがめた瞬間でした。
ドッスーン
ワーッ!
ウゥーワーッ!
ロバタと白い鹿は互いに大きな叫び声をあげました。
床に倒れたロバタの身体のうえに白い鹿が覆いかぶさるように倒れ込んできたのでした。
「ご、ごめんなさい」
「イタッ…タタ」
「大丈夫ですか…」
「な、な、何があったのですか?」
ロバタが叫ぶようにそう言って床に起き上がろうとした時でした。
ロバタはハッと息を呑みました。
「足が…足がご不自由だとは知らずに…ごめんなさい」
「いいえ…私の方こそすみません。身体のバランスを崩してしまって、本当にごめんなさい」
同時に身を起こそうとした白い鹿の右膝から下の足が有りませんでした。
ところがそんな時にロバタは突然に大きな声で笑い始めたのです。
クククッ…アハハハ
「僕はここに来て10分も経たないうちに二度もすってんころりんと転んでしまいました!」
「そう言えば…そうですね!」
白い鹿も後に続くように笑い出しました。
暖炉の中で薪が勢いよくパチパチと音を立てて爆ぜました。
白い鹿の名前はシュウーエルと言いました。
ほうき森から北に遠く離れた森でチェリストとして活躍していたシュウーエル。
足を失しないその傷を癒やすためにオレンジ谷の奥にある温泉に近いこの館で暮らし始めたことをシュウーエルは話してくれました。
ロバタは床に落ちた楽譜を手に束ね始めるとフッと笑顔になりシュウーエルにこう言いました。
「この譜面の曲…知っています。」
ロバタはその中の一枚を抜き取るとシュウーエルに差し出しました。
「あぁ…すずらんの花咲く…?弾いてみましょうか。」
シュウーエルはそう言って胸にそっとチェロを抱くと目を閉じ弦をゆっくりと弾きはじめました。
滑らかに優しく…
たおやかに激しく…
どんな言葉を口にすれば今感じるロバタの気持を表すことができるでしょう…。
それほどにシュウーエルの奏でるチェロの響きはロバタの胸を強く震わせました
vol.5
シュウーエルの弾くチェロの響きにはただ美しいばかりではない何か深く底知れぬ悲しみの色を纏っているようにロバタには思えました。
シュウーエル自身がそれをどんな強い力で封じ込めていたとしてもそれは切ないまでにシュウーエルの弾く弦に絡みつき心の奥底にある深淵を覗いているような気持にさせるのでした。
ロバタは遠い昔、フクロウのジャックペルお爺さんが弾いてくれた古いオルガンの音色を思い出していました。
決して上手とはいえないオルガンの演奏でしたがその音色は暖かく慈しみに満ち大人になったいまでも幸福な音色として心の奥底に刻み込まれていました。
「すずらんの花咲く丘で」の曲がこんなにも違った風に聴こえるものなのか…ロバタにはとても切なく思えました。
ロバタがふと我に返るとシュウーエルはロバタが一度は耳にした名曲を次々と弾き始めていました。
⦿無伴奏チェロ組曲第1番ト長調
プレリュード/Prelude
アルマンド / Allemande
(J.S.バッハ)
⦿アルペジオーネ
ソナタ
(シューベルト)
⦿動物の謝肉祭 - 白 鳥
(サン−サーンス)
と。
シュウーエルの弾く弦に乗って奏でられるそれらの美しい曲はロバタの心を芯から癒やし時が過ぎるのを忘れてしまうほどでした。
窓の外の雪はいつの間にか止んでいました。
「シュウーエルさん、随分と長居をしてしまいました。
素敵な時間をありがとうございました。」
「いいえ、私もつい、お引き止めしてしまいましたね。」
「シュウーエルさんの奏でるチェロの響きがあまりに美しく時が経つのを忘れてしまいました。
こんな素晴らしいチェロの演奏を私だけ聴くのはもったいないです。
お会いしたばかりでこんなことをお願いするのもなんですが…
出来れば森の仲間たちにもシュウーエルさんのチェロを聴かせてあげて欲しいです」
それを聞いたシューエルは少し驚いた顔をした後に
「私のようなものが…」と口ごもりました。
そして、静かに首を横に振るとシュウーエルはこう答えました。
「ロバタさん、実は私は長い間チェロを弾いていませんでした。こんなに沢山演奏したのは本当に久しぶりなのですよ」
「そうだったのですか。」
「でも…」
「でも?シュウーエルさん、チェロが弾きたくなったのですよね?」
ロバタは畳み掛けるようにシュウーエルにそう尋ねました。
まるで乾いた花が水を欲しがるように先程の演奏は私にはそう感じましたよ。
本当に素晴らしかった!本当に。
私だけ聴くにはもったいないです」
「ありがとう。だけど…」
「…何か弾けない訳があるのですか?」
(それは…その失った足のせい…?)
ロバタはそう言いかけた言葉を飲み込みました。
「ロバタさん…チェロの音域は人間の声に最も近いことをご存知ですか…」
シュウーエルはどこか的外れのような言葉をロバタに投げかけました。
「えっ!あっ、そ、そうなんですね。それは知りませんでした」
ロバタはシュウーエルの意外な言葉に首を横に振りました。
vol.6
おーい、そっちだ、そっちだ!
右に回れ、右だっ!
今度こそ逃すなよっ!
笛吹谷から更に奥に入った黒猫山の雑木林の中で狩りの男衆たちの野太い声が響き渡りました。
よーし、このまま追い込めっ!
丘の上まで追い込んだらその先は崖だ、気をつけろ!
「シュウーエル、もう走れない…先に行って」
「何を言ってるんだ、サラ!ほら、立って!走るんだ、サラ!」
「お願い、シュウーエル。せめて、あなただけでも助かって欲しい」
シュウーエルの妻であるサラはそう言ってクマザサの茂みの中で座り込んだまま立ち上がろうとはしません。
「サラ、僕の方こそお願いだ!君と一緒に逃げ無ければ意味がないよ」
シュウーエルはそう言ってサラの黒く濡れた瞳を見つめました。
「シュウーエル、あなたにはあなたの弾くチェロの音色を待っている森の仲間たちが沢山いるわ。あなたにはまだまだ果たさなければならないことがいっぱいあるはずよ」
サラはそう言ってシュウーエルの言葉を頑なに聞き入れません。
「サラ…人間が仕留めたいのは僕だけだ。
僕のこの白い毛皮だけが欲しいのだ。
その為だけに大切な君の命を引き換えにする訳にはいかないんだ!サラ、立ってくれ!」
シュウーエルは怒鳴るようにそう言ってサラの腕を掴もうとした時でした。
クマザサを覆っていた白い雪が一瞬、パッと煙のように立ち上がったかと思うと茂みに座り込んでいたサラはシュウーエルの掴んだ手を振り解き勢い坂の上目掛けて走り出したのです。
「サラーッ!」
それはあまりにも一瞬の出来ごとでした。
クマザサの茂みの脇の細道を通り抜け二日の月の薄灯りの下を走りぬけて行くサラの後ろ姿にシュウーエルは何度もその名を叫び続けました。
それでも足を止めないサラは振り向きざまに
「シュウーエル、私のことを忘れないでいて!」
そう叫ぶと紅い焔が揺らぐ坂の上の方に駆け上がっていきました。
その時でした。
パーン、パーン、パーン!
3発の乾いた銃声の音が黒猫山に響き渡りました。
一発はシュウーエルの右足の膝の下あたりを打ち抜き、もう一発は空砲に…そして、最後の一発は愛するサラの命を奪ったのです。
痛みで気が遠のきそうになるのを必死で堪えながらシュウーエルは側にあった熊笹を束ね傷を結わえました。
遠くで狩りの男衆たちの歓喜の声がザワザワと聞こえたかと思うと直にそれは落胆の声に変わって行きました。
白い方じゃなかったのか。
チッ!上手くいかないもんだよなぁ。
シュウーエルは無我夢中で凍てつく闇の中を走り続けました。
傷から滴り落ちる赤い血は雪交じりの冷たい風に飛び散りまるで紅の花びらが何百、何千と舞い散っているようにも見えました。
サラが最期に吐いた吐息も美しかった黒い瞳が閉じていく瞬間も…シュウーエルは感じることも触れることも出来ずに自分の身代わりになって死んでいったサラを思うとシュウーエルの嘆きはどんなに辛く悲しく、また、悔しかったことでしょう。
あの日から黒猫山が季節の衣を幾度替えてもシュウーエルの悲しみも悔しさも癒えることはありませんでした。
vol.7
「そうして、チェロが弾けなくなったのですね。」
ロバタは絞り出すような声でシュウーエルにそう尋ねました。
窓の外は夕暮れ近く部屋の中は薄暗い闇に包まれ始めていました。
小さなチェストの上のキャンドルに灯りを灯したシュウーエルは長椅子に腰を下ろすと愛おしいそうにチェロを胸に抱き締めました。
「私はいつの頃からか気がつけば何時もこうしてチェロを胸に抱いていました。
暖かな木の温もりと優しさと…弦を弾けば私のその時々の心を絡めとるようなチェロの響きは正に喜びも悲しみも共にあるという感じでした。けれど…」
けれど…
シュウーエルはサラを失ってからと言うものその自分の分身のようなチェロを弾けなくなってしまったのです。
チェロの音域は人間の声に最も近い音…
弦を弾けばあの時の狩りの男衆たちのざわめきが胸の奥底から湧き上がるような気がしてシュウーエルを苦しめました。
そんな日が何年も続いたある晩のことでした。
シュウーエルの夢枕にサラが現れたのです。
「シュウーエル、いつまでそんな悲しい顔をしているの?私との約束も果たさないまま…」
「サラ…すまない。君だけを逝かせてしまって…」
「シュウーエル、どんなに辛いことがあってもチェロを弾き続けてください。
あなたのチェロの音色を聴きたいという森の仲間たちは沢山いるわ。
そして、私の為のレクイエムを弾いてください。」
サラは優しい笑顔で微笑んでいました。
シュウーエルはせめてサラの願いだけでも果そうと思いました。
シュウーエルは来る日も来る日もチェロとそして弱い自分自身とも必死で向き合いました。
なぜ、自分だけが生き残ってしまったのか。
いっそ自分もあの時に人間の猟師たちに捕らえられ死んでしまえばこんなに苦しむことはなかっただろうに…。
思えば思うほどシュウーエルの心は掻き乱れそしてチェロの音は途絶えてしまうのです。
苛立ち、嘆き、そして諦め。
暗闇の中からひとすじの光さえ見つけ出せない日々の繰り返し。
シュウーエルはチェロから離れ自然の中に身を置き、ただ、何をするでもなく時を過ごしていました。
5月のある晴れた日
のことでした。
サンザシの白い花咲くその花陰でシュウーエルは寝転がりぼんやり空を見上げていました。
森を渡る5月の風は心地よく緑の木々の葉を揺らしていました。
ふと、シュウーエルは身体半分を起こして辺りを見渡しました。
風が揺らす木々の葉のざわめく音に混じってサラの声を聞いたような気がしたからです。
サラ…?
居るはずもないその幻想にシュウーエルは思わずサラの名を呼びました。
風は絶え間なくそこら中の木々の葉を揺らしそれは今にも緑の木立の奥からサラがゆっくりとした足取りで目の前に現れて来そうな気配を感じたのです。
シュウーエル
チェロを弾いて…
あなたのたおやかで凛と澄んだ美しい音色を私に聴かせて。
私はいつもこうして
あなたの側にいるわ。
シュウーエルは傍らに放リ投げるように置いてあったチェロを思わず胸に引き寄せると迷いもなく弦を弾き始めました。
Ave Maria(アヴェマリア)
( Bach,J.S/AveMari)
https://mf.awa.fm/2ObfuUB
シンプルな旋律とアルペジオの繊細な移り変わりがとても美しい
サラの大好きな曲でした。
シュウーエルがチェロを弾くということはサラと共にすごした日々を奏でると言うこと…。
誰も奪う事のできないサラとの大切な思い出の日々
嬉しい時も悲しい時もどんな時にもサラは側にいてシュウーエルの弾くチェロの響きに耳を傾けてくれました。
サラは生きている!
僕の胸の奥深く…
掛け替えのない思い出と一緒に
サラはこうしていつも呼びかけてくれる
この胸の奥底から湧き上がる押さえようもないサラへの思いを弦に乗せてシュウーエルは夢中でチェロを弾き続けました。
もう、そこにはあの忌まわし人間のざわめく声はどこにも聞こえてはきませんでした。
「シュウーエルさん、サラさんにレクイエムを弾いて上げて下さい。
そして、私もそのレクイエムを一緒に聴きたいです。
いいえ、私ばかりでなく森の仲間たちもきっとシュウーエルさんのチェロを聴きたいと思うはずです。
シュウーエルさん!
思う存分、チェロを弾いて下さい。
直ぐに、直ぐに、シュウーエルさんのチェロの演奏会を開きましょう」
ロバタはシュウーエルの返事も聞かない内に館の扉を勢いよく開けて外に飛び出していました。
館の外はすっかり雪も止み夕暮れの空にはキラキラと星が瞬き始めていました。
vol.9
「分かったよ、ロバタ。相変わらずのお節介焼きだな、君は…」
どんぐり新聞社の記者、そして親友でもあるキッネのジーポはそう言って眩しそうに目を細めました。
「ありがとうジーポ、頼んだよ。」
「まぁ、そう言う所が君の一番良いところでもあるからな。後は任せて」
ロバタはここ数日、農園の仕事もそこそこにシュウーエルの演奏会の準備に森のあちこちを走り回っていました。
シュウーエルの奏でるチェロを森の仲間たちに聴いてもらいたいのはもちろんでしたが何よりシュウーエルが悲しみの底から抜け出す手助けを森の仲間たちにも手伝って欲しいと願ったからでした。
それから3日後のどんぐり新聞の朝刊の一面には
「シュウーエル・チェロコンサート」
の黒ぐろとした見出しの文字が踊っていました。
コンサートは来週末の日曜日
13:30
(入場)
14:00
(開演)
プログラム
✿✿✿✿✿
⦿2つのバイオリンのための協奏曲ニ短調
(j.s.バッハ)
⦿ヴォカリーズ
(ラフマニノフ)
⦿管弦楽組曲第3 番二長調 「G線上のアリア」
(j.s.バッハ)
⦿主よ人の望みよ喜びよ(j.s.バッハ)
⦿カノン
(パッヘルベル)
⦿Ave Maria
(j.s.バッハ)
⦿Ave Maria
クレーゼ、独唱
⦿サラに捧げる
雪のレクイエム
(シュウーエル)
✿✿✿✿✿
ジーポの丁寧な記事はシュウーエルの写真と共に短いコメントも添えられまた、森の協賛者たちの名前がアルファベット順にキチンと記されていました。
「完璧だよ、ジーポ!持つべき者は友達だよ!」
ジーポは忙しい時間を割いてシュウーエルの館まで取材に出かけ記事を書き、ロバタの思いに叶うように力を貸してくれたのでした。
演奏会の当日は雪もよいの生憎のお天気でしたが白樺の館には大勢の森の仲間たちが集まってくれました。
コッペリのパン屋のブタのゼヒトモさんは「森のお話し会」でよく食べたカヌレやマカロン等の焼き菓子を白樺の館に届けてくれました。
ロバタもりんごの果汁にはちみつたっぷりのホットティーを振る舞い館の庭はさながらお祭りのような賑わいでした。
会場の中にはめいっぱいおしゃれをキメた森の仲間たちで溢れかえっていました。
赤い手編みのショールを頭から被った坂の上の病院長、ヨウゴゥ先生、息子のアナンさんの顔もありました。
元気になったネズミのナチューと「オルゲンハット」のマエストロ、ダンシャクさんの顔も見えます。
色違いのソフト・ハットが素敵です。
蝶ネクタイをしたクマのプロフは大きな体が邪魔にならないように一番後ろの席で腕を組んで座っています。
その横にはオオワシのグリーク、首に巻いた素敵なマフラーはクッキーニさんがロバタに編んでくれた物?
いえいえ、北の森に住む画家のクッキーニーさんが改めてグリークに編んで贈ってくれたのでした。
ロバタが願ったものはひとつの幸福
それはそれぞれの暮らしを大切にしながら互いを思いやり喜びも悲しみも森の仲間たちと分かち合うと言うこと。
シュウーエルのコンサート会場に詰めかけた森の仲間たちを見るとロバタはつくづくその願いは叶えられているのだと嬉しくなるのでした。
さぁ…シュウーエルのチェロコンサートが始まります。
次々にシュウーエルの奏でる美しい曲が白樺の館の中に流 れます。
暖炉の中の薪は赤赤と焔を揺らし暖かです。 森の仲間たちはここ数ヶ月間の辛い自粛生活の日々を思い 出しながら身も心も癒やされて行きました。
⦿主よ人の望みよ喜びよ(j.s.バッハ)
⦿カノン
(パッヘルベル)⦿Ave Maria
(j.s.バッハ)
窓の外は静かに雪が舞い始めていました。
プログラムは残り
あと2曲
進行役のロバタがそのことを観客に告げると最前列の端に座っていたブタのクレーゼがすっと立ち上がりシュウーエルの前に歩み出ました。
目の覚めるような赤いドレスを着たクレーゼの髪は美しく結い上げられ胸には白いクリスマスローズの小さな花束を抱いていました。
「シュウーエルさん、今日はチェロコンサートにお招き下さってありがとうございました。森の仲間たちに代わってお礼を申し上げます」
クレーゼはそう言って白い花束をシュウーエルに手渡しました。
「シュウーエルさんの奏でる美しいチェロの演奏はロバタから聞いていた以上の素晴らしい演奏でした。感動いたしました。シュウーエルさんが今、深い悲しみの底にいらしていること…私たちは知っています。この小さな森の中でも私たちは自分でも気づかないうちに誰かを傷つけたり傷つけられたりして生きています。それは人間の世界でも、いえ、この地球上の生きとし生けるものすべての生きものたちはみなそうだと思います。ただ、悲しみや憎しみにいつまでも執着していると私たちは明日を生きる力、希望の光のようなものを見失ってしまうように思います。そんな時は悲しみや辛いことを誰かと分ちあいながら自分ばかりではないのだと前を向いて生きていかなければと思います。だから…シュウーエルさんの胸にあるその悲しみや苦しみを私たちも共に分かち合いシュウーエルさんが少しでも希望の光を見つけていけるように私たちは応援していきたいです」
森の仲間たちもそっと頷きました。
「今日は私たち森の仲間たちからのお礼を込めてサラさんの好きだったAve Mariaを捧げたいと思います。聴いて下さい」
観客席から割れんばかりの拍手が沸き起こりました。
森のDiva(歌姫)クレーゼの歌うAve Maria。
透きとおるような美しい歌声が白樺の館、そして林の奥深くまで響き渡りました。
さあ、最後はシューエルの演奏です。
「クレーゼさん、そしてみなさん、本当にありがとうございました。
みなさんの私やサラに寄せる暖かで優しいお気持ちを聞いて私には生涯忘れられない思い出の一日になりました。
ありがとうございました。
天国にいるサラもきっと喜んでいると思います。
次は私がサラにレクイエムを捧げます。
みなさん、一緒に聴いて下さい」
シュウーエルは青く濡れた瞳をそっと閉じるとゆっくりと弦を弾き始めました。
「すずらんの花咲く丘」
シュウーエルの魂を込めたチェロの響きに会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきました。
雪は止むことなくいっそう激しく降りしきりました。
vol.10
シュウーエルのチェロコンサートは大成功でした。
素晴らしい演奏だった!
ブラボー!
心に染みる旋律…
そして、感動!
また、是非コンサートを開いて欲しい!
森のあちこちからシュウーエルのチェロの演奏を称える言葉の花束がロバタやどんぐり新聞社に次々に届けられました。
ロバタもジーポもその声の多さに当然と思いながらも驚きを隠せません。
「ロバタ、春になって暖かくなったらシュウーエルのコンサートをまたやりたいね」
ジーポは切れ長の目を細めて嬉しそうにそう言いました。
「ジーポ、森の仲間たちのこの声を早くシュウーエルさんに届けなくっちゃ。そして、次のコンサートのお願いをしよう。」
翌日、ロバタとジーポ、クレーゼは白樺の館を訪ねることにしました。
空は晴れ、数日前の雪がおひさまに溶け出しぬかるんだ道は白樺の館まで続いていました。
ロバタがつま先の雪を払おうとしゃがみ込んだ時でした。
「シュウーエルーー!」
「シュウーエルさーん!」
突然、ジーポとクレーゼがシュウーエルの名を叫びながら白樺の館の方に走り出したのです。
ロバタはその場でよろよろと立ち上がるともう、シュウーエルの名を呼ぶ事さえ出来ませんでした。
白樺の林の奥に建つ館は、雪の重さに傾き、立派な煉瓦造りのエントツは崩れ落ち、窓も扉も朽ち果て、まるでくりぬかれた洞穴のような部屋の中には冷たい風の音だけがビュルビュルとこだましていました。
ロバタはあの雪の日、シュウーエルが暖かな部屋に招き入れてくれた扉を強く押し開けました。
傾いた重い扉の隙間から雪を被ったシュウーエルの亡骸が見えました。
チェロの弦をしっかりと握りしめたまま、シュウーエルは静かに息絶えていたのです。
「シュウ…エル!」
クレーゼが叫びにも似た声をあげながらジーボの背中にしがみつきました。
「シュウーエルさん、シュウーエルさん、こんな突然のさよならはないじゃないですか…」
シュウーエルの亡骸の前でロバタは崩れ落ちるようにひざまずくと幼子のように大声をあげて泣きじゃくりました。
覗いてはいけないものがあるのだよ…
そう、この森の中にも。
いいかい?
見てはいけないものを見て怖い思いをするからじゃないんだよ。
邪魔をしたり誰かを驚かせたりするからじゃないんだよ。
そっとしておくことが一番いいことだってあるってことさ。
朽ちた扉の隙間から吹き込む雪混じりの風に乗ってジャグペルお爺さんの声がハッキリと聞こて来たようでした。
「ジャグペルお爺さんが僕らに言いたかったことはこんな事だったのか」
ジーポは震える様な声でそう言いました。
するとロバタは何度も頭を振って言いました。
「ジャグペルお爺さんの言った事は確かにそうだったかもしれない。
僕があの日、白樺の館を覗きさえしなければ…シュウーエルさんのチェロを聴かなければ…こんなにも悲しい結末を見ずに済んだかもしれない
でも、僕は、僕は…それで良かったんだって今は思いたい。
だって、こんな寂しい場所でシュウーエルさんをひとりぽっちで逝かせるなんて出来なかったじゃないか…」
「ロバタ…」
ジーポは泣きじゃくるロバタの肩を強く抱き寄せて自分も拳で涙を拭いました。
「そうだな、ロバタ。ほんの短い時間だけでも僕らはシュウーエルと同じ時間を共に過ごしあんなに美しいチェロをシュウーエルに聴かせてもらったのだから。
シュウーエルは決してひとりぽっちじゃなかったよ」
「シュウーエルはおバカさんね…サラにあんなに美しいレクイエムを弾いてあげたのに…あなたには誰がレクイエムを捧げるのよ」
クレーゼも後から後からこぼれ落ちる涙を拭いながらそう言いました。
「シュウーエルのレクイエム、僕らが捧げるよ」
ジーポはそう言ってシュウーエルの傍らに落ちていた一枚の楽譜を拾いあげました。
「すずらんの花咲く丘」
ジーポが差し出した楽譜にクレーゼは首を横にふってこういいました。
「大丈夫よ、私たちの思い出の歌…歌えないはずがないじゃない?」
ふくろうのジャグペルお爺さんの弾く古いオルガンに合わせて何十回、何百回と歌ったこの歌をクレーゼはもちろんロバタもジーポも諳んじていました。
クレーゼは祈りを捧げるように胸の前で静かに手を組むとあの時と同じようにそれはそれは美しく澄んだ歌声で歌い始めました。
遠い記憶の彼方からふくろうのジャグペルお爺さんの弾く古いオルガンの音が聴こえて来ました。
光る雪解けの道を
君が駆け抜けていく
白いすずらんの花咲く
あの丘の上まで
僕はずっと忘れはしない
君と過ごした日々を
胸に抱いたすずらんの花
君に捧げよう
シュウーエルさん、春になったらあなたをすずらんの花咲く丘の上へ連れて行ってあげよう。
そう、春風に吹かれながら
森の仲間たちと一緒に。
終