積んで Re:トリック 9
ダイイングメッセージはどこまでも
「……その前に一つ、伺いたいことが。春川を恨んでいるような人物は、ボードゲーム研究会のメンバーにはいなかったんですか。無論、稲村保奈美を除いてです」
「いないわ」
「だったら答は一つです」
僕は軽く息を吸い込んでから断言した。
「犯人は春川定一。容疑者の枠から外れるために、敢えて自分の名前を第二の偽ダイイングメッセージとしたんです。動画によって偽装工作だと暴かれるのは確実なんですから」
「――真歩、お茶菓子をお願いするわ。それとお茶のお代わりの準備も」
横田先輩の呼び掛け応じて副部長が動く。話の区切りが付いたようだ。
「私はダイイングメッセージ物が好みではありませんが、この事件のトリックはそれなりに評価しています。推理小説を読んでいてありきたりなダイイングメッセージが出て来ると、常々思っていたものだから。すなわち、『ダイイングメッセージは破壊されるのが当然。現場に残っているということはそのメッセージが犯人による偽装である証拠。ならば犯人はさらに悪知恵を働かせ、自分自身の名前をダイイングメッセージに書いてはどうか。偽のダイイングメッセージなのは捜査陣にとって明らかなのだから、そこに名前を書かれた犯人自身は容疑の枠から外れるに違いない』と」
「理屈を突き詰めればそうなりますが、実際にやるには勇気がいるでしょう。もし万が一、捜査を指揮する刑事がポンコツで、ダイイングメッセージをそのままの意味に受け取ったら、瞬く間に逮捕されてしまいます」
「そういった懸念があったから、これまで犯人が自らの名前を偽のダイイングメッセージで書くことはなかった。逆に言えば懸念さえ解消されればあり得るのよね。この春川定一は被害者の携帯端末で撮影するという方法により、懸念を取り除こうとした。けどその目論見はあえなく崩れた」
お茶菓子が届いた。高そうなチョコレート菓子だった。紅茶にはクッキーではないのかと思ったけど、頭脳に糖分補給するにはチョコレートの方が効率的なのかもしれない。
「いただきます。――でも、証拠はあったんですか?」
「証拠?」
「春川が犯人であるという絶対確実な証拠です。ダイイングメッセージの経緯を解き明かしたところで、犯人はいくらでも逃げが打てそうですが」
「ああ、それなら心配いりません。被害者が別の形でダイイングメッセージを遺していたのよ」
えっ? 部長はこともなげに言うけれども。
「別のって、それも同じダイイングメッセージなら解明しても決定的な証拠にはならないんじゃあ……」
訝る僕の前で、横田部長は右手人差し指を左右に振った。
「文字通りの『死に際の“伝言”』だったのよ。時田かえでは春川に襲われそうになった刹那、すぐに携帯端末を取り出して録音機能を作動させていた。最初から録音するつもりだったのか、助けを呼ぼうと電話したかったのに間違えたのかは分からない。ともかく残っていた音声データをチェックすると、時田の声で『春川君に襲われている』と小さいボリュームながらもはっきり言っていたわけ」
「はあ……それってつまり、血文字の方のダイイングメッセージを解かなくても、犯人はほぼほぼ決まりだったってことですか?」
「そうなるわね」
脱力して椅子からずり落ちそうになった。
「でも、これで分かったでしょ?」
外野から、と言っては失礼になるけれども、副部長の水無辺さんが手の内でチョコレート菓子をもてあそびながら、僕の方に笑いかけた。
「何がですか」
「この事件についての話を始める少し前に、犯人や被害者の機智が絡んだダイイングメッセージだって言ったの、覚えていないかな?」
「ああ、そういやそんなこと言ってましたね。今さっきずっこけそうになったおかげで、危うく失念するところでした」
「忘れる前でよかった。で、どう? 感想は」
「まあ確かに犯人、被害者の両名とも凝ったダイイングメッセージをこしらえたことにはなっていますね。殺された時田の方は、たまたまそうなった可能性が高そうですけど、犯人確定の根拠になったのだから結果オーライ、いや本人は死んでるんだからオーライも何もないですけど」
「そうよね。やっぱり本人としては、誰でもいいから電話がつながって生の助けを求めたかったはず。もしもSH会館がおんぼろで、防音設備が大したことなかったのなら、わざわざ電話を掛けようとしなくても、直に声が届いたでしょうに」
「あ、そうか。近くの建物には知り合いが大勢いたんだ」
その点が頭になかった僕は、遅まきながら情景を思い描いてみた。
仲間達が夜更かししてボードゲームをやったり、新しいゲームを考案したりしているそのすぐ近くで、メンバーの男が女を殺している……何ともおぞましい。そして対照的な構図だ。
「――SH会館は本当に防音設備はしっかりしているのでしょうか」
「なぁに、その発言は。問題発言の匂いがプンプンします」
面白がる口ぶりで、横田部長が応じた。だけどその眼は真剣だ。
「もしも、ですよ。もしも時田かえでの悲鳴なり助けを求める声なりが、ほんのちょっとでも建物の中にいる誰かに届いていたとしたら、彼女の命は助かったでしょうか」
「分からない。現代人特有の、あるいは都会特有の無関心さなんていうけれども、そんなも持ち出すまでもなく、シンプルに『怖いから』という理由だけで、様子を見に行かないなんてことは当たり前にあり得るわ」
「いえ、そういうのではなく、僕が想像したのは故意に見殺しにした可能性はゼロなのかな……と」
自然と語尾を濁し、口ごもってしまった。時田かえではボードゲーム研究会のメンバーのほとんどから嫌われていたかもしれない、死んでもかまわないと思われていたかもしれない。そう付け足すつもりだったけれども、息苦しさを覚えて、気力が萎えた。
横田先輩は指先を布巾で拭うと、髪を軽くかき上げた。
「そうね。私達の体験した事件と前置きしたけれども、言うまでもなく、警察から学校を通じて依頼があったものという意味です。そこのところは理解していますね?」
「はい」
「担当した捜査員がもたらす情報を基に、私達は推理を組み立てる。この事件について捜査内容の詳細を語ってくれた刑事さんによれば、SH会館の防音は完璧だったとのこと。実験をして確かめたのかどうかまでは聞いていません。そこは警察の情報を信頼するほかないのです」
「分かりました」
そういうことにしておこう。でないと決着しない。
「さあ、この件はこれでおしまい。急いで帰るのなら、カップは放っておいてもかまわないから」
「あ、ありがとうございます」
「お礼には及びません。代わりに次回はたっぷり、雑用をやってもらいますから」
「いや、それなら洗って帰ります」
小脇に抱えた学生鞄を戻し、ほんのわずかに飲み残しのある紅茶を改めて呷った。そのまま部室備え付けの流し台へと向かう。カランを捻って水を勢いよく出した瞬間、先輩二人の声が途切れ途切れに聞こえてきた。僕は水の勢いを弱めて、「すみません、もう一度お願いします」と請うた。
「床の文字はどうするのかしら、と聞いたのよ」
「はい?」
「忘れてるのなら、そのままにしておこうかな」
肩越しに振り返り、やっと思い出した。最初に横田部長が戯れに書いた“ダイイングメッセージ”。僕の名前がそのままになっている。
「洗い物が済んだら消しときます」
「そう、残念ね」
本当に残念そうに、ぽつりと横田先輩。
「何がそんなに残念なんですか、気になるじゃないですか」
カップを食器置きに伏せ、布を被せた僕は、手をハンカチで拭きながら先輩達の前に戻った。
「仮に、このまま朝を迎えて、この部屋で殺人が起きて、被害者がちょうどそこに――」
僕の名前のある辺りを占めそうと、顎を振った部長。
「――俯せに倒れたとしたら、どんな状況になる?」
「……死の間際に、被害者は僕の名前を書いたように見えるかも」
僕の答に、先輩達は拍手をくれた。
「よくできました。ああ、全くの偶然によるダイイングメッセージ、という珍しい事例が観測できるかもしれないと期待したのに、残念だわ」
いや、そもそも部室で殺人なんて起きないですから。多分。
――終わり