積んで Re:トリック 8

舞台を整えたのは誰?

「なるほど。状況は飲み込めました」
 そう答えた直後に、確認すべきことに思い当たる。急いで質問した。
「『はるかわ』と書く様子は録画されていなかったんですか」
「その少し前からバッテリー切れで機能しなくなっていたらしいわ」
「分かりました。ということは……楕円形の痕跡というのは、被害者が『いなむら』と書いたのを犯人が読めなくするためにこすった。そして被害者の指に新たに血を付け、『はるかわ』と書いた。こう考えられますね」
「そう仮定した場合、犯人は?」
 僕は横田部長に問われる前から考えていた。なので、それなりに素早く返事ができたと思う。
「そりゃまあ普通に考えれば、稲村保奈美です。彼氏である春川を奪ったにっくき時田かえでを殺害するも、自分の名前をダイイングメッセージに書かれたと気付き、急いで消す。その上で時田になびいた春川に罪を被せようと思い付き、急遽、彼の名前をさも時田の書いたダイイングメッセージであるかのように記した」
「ごく当然の思考よね」
 先輩は肯定してくれたけれども、ちっとも誉められている気がしないのは何故? その口調の響き具合のせいかな。
「ところがそこに、新たに判明した事実が立ちはだかります。稲村にはアリバイがあったの。ボードゲーム研究会の活動予定にはなかったらしいんだけど、その日の午前一時から午前四時前まで、新しいボードゲームのネタを他の部員三名と一緒に議論していたそうよ。バックギャモンとチェスの合体とか、リバーシ、いわゆるオセロゲームの盤面が途中で8×8の升目から違う形に変化するとどうなるかとか」
 ほんのちょっぴり、面白そうと思ってしまった。どうやって実現するのかとなるとコンピュータ上になりそうだけど、それでもボードゲームと言っていいのかしらん。
「証人となる三人の中には時田のこととはまったく無関係の副部長と一年生男子がいたので、口裏を合わせているとは考えにくい。トイレで席を外すことはあっても、三分ほどで部屋に戻って来ていた。三分では犯行現場までの往復と殺害、そしてダイイングメッセージの小細工は無理だと判断されたわけ」
「じゃあいったい……被害者はどうして『いなむら』なんて書いたんだろう……。他にも『いなむら』姓の人がいたとか、ちょっと書き足せば『いなむら』になるような名前の持ち主がいたとかではないですよね?」
「いないわ。だいたい、書き足して『いなむら』になる名前ってあるかしら」
「うーん、『なむら』か『いたむら』か」
「何にしても駄目よ。動画では、被害者の指が『いなむら』と書く動きをしたのは間違いないのだから」
「ですよね。稲村が犯人ではないのに、ダイイングメッセージに『いなむら』と書く理由……」
「そう考え始めると泥沼にはまるかもしれないわよ。犯人の名前ではなく、罪を着せたい人の名を書いたとか、実は時田は同性愛者で最愛の人の名を最期に書きたかったといった突拍子もない想定をして、収拾が付かなくなる」
 仮の話とは言え、随分と自由な発言を繰り出す部長。話に出て来た名前は本名だと聞いているから、余計に気になる。
「被害者が最期に書くのは犯人の名前という考えはそのままでいいの」
「わけが分かりません。稲村は犯人ではあり得ないように思えるのに、被害者は犯人の名を書いた? アリバイトリックの話になってしまいます」
「ううん。主題はあくまでもダイイングメッセージよ」
 少々苛立った風に横田先輩は言った。そして大きなヒントをくれる。
「私の言ったことを矛盾なく成立させる状況が、少なくとも一つあるでしょうが」
「……待ってください。まさか……分かったかも」
 僕の目はそのとき輝いたかもしれない。部長は小さく顎を動かし、先を促してきた。
「被害者はダイイングメッセージなんて残さなかった。違いますか?」
「続けて」
 部長が言い、それを合図としたみたいに副部長が席を立った。そして「お茶を入れるね」と言う。明言されたことはないけれど、水無辺先輩がお茶を入れ始めるのは話の終わりが近いサインだと、僕は解釈している。
「『いなむら』と書く様子はどアップだったんですよね? 顔が映っていないんだとしたら、本当に被害者が書いたのか怪しくなってくる。恐らく犯人が遺体の手を取って血を指先に付け、人形を操るかのごとく指を動かして『いなむら』と書いたんだ。わざわざ書いた血文字をこすって読めなくし、新たに『はるかわ』と書けば、いかにも犯人は稲村であり、彼女が春川に濡れ衣を着せようとしたように見える。真犯人は稲村保奈美が夜中にゲームを談義に花を咲かせていることを知らなかったメンバーだから、それだけでも相当絞り込めますね」
「なるほど。ワトソン君はそう考えるのね」
「えっ。間違ってます?」
「いいえ、間違ってはいないわ。思考のルートがちょっぴり異なるかもしれないなー、なんて感じたものだからつい」
 時折見せるチャーミングさに溢れた表情で言う部長。僕がしばし気を取られているところへ、水無辺先輩の「さあさあ、美味しいお茶が入りましたよ」という声が届いた。

 水無辺さんの入れた紅茶は、ティーバッグから作ったとは思えないくらいにいい香りを漂わせていた。芳醇とまでは行かずとも、深みのあるかぐわしさだ、多分。一口飲んでみて、ただ濃いだけの紅茶ではないと分かり、ますます感心した。
「お茶菓子は話の区切りが付いたら出すわね」
 そう言って副部長が元の場所に収まったところで、僕と部長とのやり取りが再開される。
「ルートが異なるというのは、僕の考え方が遠回りだってことを暗に言っているのでしょうか」
「遠回りかどうかは分からないわよ。最短距離であってもフルスロットルで飛ばせるとは限らない。非常に入り組んだ曲がり道や、急勾配に過ぎる下り坂だと、自ずとスピードは落とさなくちゃいけない」
「それはそうでしょうけど」
 ここはロジカルに、そういうスピードも含めて僕の思考の段取りが遠回りなのかと食い下がってみてもよかったんだけど、面倒臭そうな事態になる予感がしたのでやめた。
「私から聞くけど、犯人が稲村保奈美ではないのなら、どうして第二の偽のダイイングメッセージとして『はるかわ』なんて書いたのかしらね」
「それは……犯人は稲村に罪を着せるために……」
 答えながら何か変だぞと思い始めた。
 犯人は被害者の携帯端末が動画撮影モードになっていたことを知らなかったはず。だったら、「はるかわ」と書いただけでは不充分ではないか。コンクリートの道に「いなむら」と血文字で書き記したあと、こすって読めなくした場合、今の科学捜査の技術で元々の「いなむら」という字が読み取れるとは思えない……。
「稲村の元彼の名前を書いたからって、それだけでは稲村に濡れ衣を着せるのは無理があるような気がしてきました」
「そうよね。なのにさっきまで君は真犯人は稲村に罪を被せる目的で偽装工作をしたと疑いもしなかった。それはどうしてかな?」
「動画があったから、です」
「でしょ。だったらここに来て疑うべきは?」
 紅茶を飲んで僕からの返事を待つ部長。
「……犯人は被害者の携帯端末で動画撮影されていると知っていた。むしろこれも犯人の細工で、あたかも偶然撮影されたかのように見せ掛けて、最初の偽ダイイングメッセージが『いなむら』であったことを示した?」
「私もそう思ったわ。だって外灯が壊れているとか、犯人の姿が映り込んでいないとか、犯人にとって都合がよすぎるんですもの」
 言われてみれば仰る通り。犯人は何から何まで計画していたということか。そう考える方が理に適っている。
「すべては犯人の仕組んだこと。そういう前提で考え直すと、第二の偽メッセージを『はるかわ』にした犯人の思惑が透けて見えてくるんじゃないかしら」

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