見出し画像

元中学教師のイエス―小津安二郎『父ありき』


はじめに

 これまで、小津安二郎は、公的領域におけるイエスを描いた『シヴィリゼーション』を観て監督を志したということを前提に、小津作品を年代順に考察して来た。小津作品の特徴は、私的領域におけるイエスを描いているというところにある。今回は、1942年の『父ありき』について、考察したい。 

Ⅰ 『出来ごころ』・『一人息子』との共通点と相違点

 『父ありき』で描かれるのは、『出来ごころ』(1933)と同じ、父と息子だけの家庭である。『一人息子』(1936)同様、片親が子供の教育のために懸命に働き、仕送りする。『父ありき』では、父の周平を進学させるために、漢学者だった祖父は自宅を売り払ったと語っている。わが子の教育のために、自宅を手放すという祖父の行動は、『一人息子』の母親と全く一緒である。周平の郷里も、『一人息子』の母親が住んでいるのも、信州である。

 両者との相違点は、父の周平が中学の教師をしており、教育を受けた人間であるということである。『出来ごころ』との違いは、喜八のように、美人にうつつを抜かすことなく、息子が大学まで卒業できるよう、そのことだけを目指して、自身の身の振り方を決めている点である。『一人息子』との違いは、製糸工場で雑用をやり、工場の長屋で暮らすような、悲惨な暮らしぶりではない点である。父親は中学教師を辞めて、東京に出てきた後も、東京の借家に女中を置いて暮らしている。

Ⅱ 罪を贖い続ける父 

 妻を亡くし、一人息子の良平と暮らす堀川周平は、修学旅行の引率をする。旅行中、生徒が芦ノ湖で勝手にボートに乗ってしまい、ボートは転覆し、生徒ひとりが亡くなってしまう。修学旅行は複数の教師で引率しており、同僚からも慰留されるが、一人で事故の責任を取り、教師を辞職する。引率教師として、父母に代わって生徒を監督するという自己犠牲を払わなければならなかったのに、その職務を全うできなかった責任を取っているのである。
 周平は父母に代わって、生徒に愛を注ぐという役目を有償で務めていた。つまり、公的領域において有償でイエス役を務めていたが、その役目を完遂できなかったのである。

 周平は、中学教師を辞任しただけではない。中学校の元教え子たちが開いてくれた同窓会でのやりとりから、周平が事故後、10年以上にわたって、亡くなった生徒の命日に、両親にお供えを送っていることがわかる。自分の犯した罪を償おうとし続けているのだ。公的領域で有償のイエス役を演じきれなかったことに罪の意識を持ち、罪を贖おうとし続ける周平は、どこか修行僧を思わせる。

Ⅲ 私的領域におけるイエス

 1 僧侶の友人

 そんな周平と郷里の信州で親しいのは、僧侶である。周平は、教師を辞めてから、僧侶をしているこの友人のもとを訪ねる。故郷にもはや自宅がない周平のために、僧侶は住まいの一部を提供し、一方的で絶対的な無償の愛を示してくれる。僧侶の友人は、私的領域におけるイエスのごとき存在として描かれている。

 2 周平

 周平もまた、私的領域におけるイエスということができる。不慣れな裁縫を手掛けたり、信州を離れる際、中学校の寄宿舎で暮らす良平のために、下着や靴下一式を持って行ってやっている。周平は亡き妻に代わって、良平の身辺の世話を焼いているのだ。
 また、中学教師を辞めた後、信州で役場に勤めるが、その給料では息子を大学まで進学させることは難しいと思い、東京に出て、会社勤めをすることに決める。息子の学費のために、ひとり東京に出て来て働く父は、息子に対する一方的で絶対的な無償の愛のために、自己犠牲を払っているといえる。

周平と良平

Ⅳ 滅私奉公を説く父

 これまで取り上げてきた小津作品と決定的に違うのは、父が息子に無償の愛を捧げるけれど、その息子に対し、いわば「滅私奉公」を説くところだ。秋田の工業学校で舎監を務める良平が、東京で仕事を探して、お父さんと一緒に暮らしたいというと、いったん与えられた以上は天職だと思って、自分の分を尽くすようにと言って、反対する。また、徴兵検査で良平が甲種合格となったことを喜び、仏壇でお母さんに報告しなさいと言ったりする。
 わが身を犠牲にして大学まで出してやった息子が、一緒に暮らしたいと言えば喜びそうなものだし、徴兵検査で甲種合格となれば、赤紙が来るのは間もないだろうから、悲しんでもおかしくない。しかし、「滅私奉公」を是としていた時代ゆえか、周平はわが子に対し、私的な感情を押し殺し、有用な国民の育成に努めることを求め、国家のために息子が犠牲になることをよしとする。手塩にかけて育てた息子が十字架にかけられることを肯定するのだ。
 
 良平は徴兵検査で上京し、ようやく父と一緒に過ごすことができたと思ったら、父は急死してしまう。父の元同僚(坂本武)の娘(水戸光子)と結婚し、秋田へ戻るが、ほどなく赤紙が来るだろうから、妻とともに過ごせる時間も限られているに違いない。生徒の死で始まり、父の死で終わり、息子の死も予見させられる。毎日、戦争で多くの兵士が亡くなっていた、そんな時代の、死の匂いに満ちている映画ともいえよう。

おわりに

 こうしてみると、父は私的領域におけるイエスということができる。息子も父の愛に応えようと、父がかつて自分にお小遣いをくれたのに倣って、父にお小遣いをあげたりする。しかし、これまでの小津作品と違うのは、父が息子に「滅私奉公」を説き、息子が公のために犠牲になることを肯定しているところである。

 小津は、公的領域で反戦を説くキリストが登場する『シヴィリゼーション』を観て映画監督を志し、私的領域におけるイエスを描き続けて来た。
 それが、戦時下の本作においては、どうか。父は、私的領域において、息子に無償の愛を注ぐイエスである。が、成長した息子が、天皇に代わって戦地に赴き、命を捧げることをよしとしている。つまり、公的領域で天皇に無償の愛を捧げる、天皇にとってのイエスになることを肯定してしまっているのである。

 『シヴィリゼーション』から出発したはずの小津が、その対極にある考えを打ち出したのが、『父ありき』といえよう。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

※父が息子との同居を拒絶するくだりが、「滅私奉公」を説いているということは、すでに佐藤忠男氏が『完本 小津安二郎の芸術』(2000、朝日新聞社)で述べています。

いいなと思ったら応援しよう!