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ピアノ愛好者の頭の中

新年の目標にnoteを書いてみることをあげていたので少しだけ。伝わるのか伝わらないのかはわからないけど。

趣味はピアノですと自信を持って言えるようになったのはここ最近。趣味なんだから自分のために弾ければいいと割り切れるほどでもなく、続けているからには何か伝わるような聴いてくれる人が共感できるような演奏をしたいと求めてしまう。要するに諦めが悪い。
そんな中、去年の夏にコンクールに出たことで考えが少し柔軟になった気がする。出場の理由はシンプルで客観的な実力が知りたかったということが大きい。和声、メロディーと伴奏のバランス、歌い方、ペダルの使い方、音色の使い分け等々今の自分が持つ力を出せるよう練習を重ねていた。
コンクールに出るからには勿論、いい成績を残したいという思いは皆あるので、自分をアピールできるような強みを活かす選曲をすることも多い。
それでは、曲を完璧にまとめ上げコンクールで良い成績を残した人のみが、素晴らしい演奏と認められるのか?答えはノーだと思っている。少し脱線するが欠点のない演奏は今の時代、AIの方が得意だろう。生身の人間が弾くと、演奏には人間性が出る。同じ曲でも弾き手によって解釈や音の使い方は全然違う。
人が弾くものなので、いい面、悪い面があって当然だし、強みだけにスポットライトを当てた演奏じゃなくていい。弱いところも出していい。弱い面というのは、技術的に弾けていない等練習不足を言い訳するものではない。演奏は人間性が出るので、人間的な強さ、弱さを出してもいいのではないか?ということだ。強い面だけを見せて圧倒するのではなくて、弱い面もあるからこそ演奏にその人らしさが出るのではないか、とコンクール当日、演奏2時間前くらいの若干ナーバスになっている時に気づいた。人間追い詰められると普段と違うことに気づくのかもしれない。
気づいたと同時に、聴いてもらった先生に「君の演奏はとてもいいけど癖がない」と言われたことを思い出した。褒め言葉のようにも聞こえるが、今思えば失敗したくないという思いから自分の中の正解を求めすぎて面白みのない演奏になっていたのだと思う。
気づくタイミングとしては演奏2時間前と遅すぎたが、自分の弱さを認めたくないといった思いも練習期間中はあった。虚勢を張っているような感覚だったのかもしれない。気づいた瞬間、緊張が解けていくのを感じた。
コンクールに出て曲の完成度を高められたことは良かったし技術的な面での進歩を感じた。ただそれ以上に今の自分を受け入れて、これでいいんだと思えたことが1番大きな収穫だった。