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フォロワーのオススメ映画30本見た

今期はアニメをロシデレしか見ておらず時間的に余裕があったのでTwitterでオススメ映画を募集したところたくさんのリプライを貰えました。いい機会なので今期は映画シーズンにしようと思い、オススメしてもらったものは全て見ています。アマプラかネトフリで見れる奴は有料でも見ましたが、それらのサブスクになかった『名探偵コナン黒鉄の魚影』『バタフタイ・エフェクト』『Trainspotting』『アナコンダ』は見ていません。近所のTSUTAYAもゲオもレンタルビデオ事業から撤退していて現状すぐに見る手段がありませんが、そのうちチェックしようとは思っているので許してください。

以下は個人的な評価と感想ですが評価は5段階で、

★5:今後忘れないくらい良かったもの

★4:かなり面白くて1か月くらいは忘れないもの

★3:悪くなかったくらいの評価

★2:つまらない寄りだが見れなくはない

★1:見るのが苦痛レベル

くらいの認識です。一応断っておくと映画の評価は映画それ自体で完結していて、どんなに仲のいいフォロワーの紹介でもつまらないものはつまらないと言うし、その逆も然りです。そして俺は映画については門外漢なのでどんな映画でも紹介してくれたことは感謝しています。あと感想は見た順で書いてます。



オデッセイ

★★★☆☆

男が火星に取り残され次回のミッションまで孤独に4年間生き抜くSFサバイバル・・・かと思いきや4年を待たず仲間が助けに来る展開で若干萎えた。主人公が生きていることが公になると彼を置き去りにした他のクルーの責任になるので、この事実を秘匿しようという案が出た時は感心したが、結局世界中が彼を救出するために協力し一つのハートフルストーリー化したあたりが実にアメリカ的な展開だと思った。日本だったら間違いなく秘匿し彼を闇に葬ると思う。最初はサバイバルだと思っていたのに中盤位で救出展開に舵を切り始めた時点で俺はしらけた。昔見た『アイアムレジェンド』もそうだったけど、有名なサバイバルものって最後には実は仲間がいて孤独じゃなかった展開になりがちで個人的に冷める。最後までサバイバルしてくれ!総評60点くらい。序盤は面白かった。


セッション

★★★★☆

かなり面白かった!ニーマンとハゲ教師はパワハラの被害者と加害者の関係で最後まで和解はしないものの、音楽への狂気的な情熱を持っているという点で作中唯一の理解者でもある。ニーマンはドラムを血まみれにしたり練習時間の確保のため恋人を一方的に振るなど、偉大なドラマーになるため他の全てを犠牲にする覚悟を持っている。またハゲは行き過ぎた指導で教え子を鬱病にし自殺に追い込んでいるにも関わらず、世界的な演奏家を育成するため未だにその指導スタイルを貫いき続けている。作品の舞台は全米トップの音楽学校だが、彼らの熱量についていける者は他に存在しない。そういった共通点を持った彼らが協力してセッションする作品なのかと思いきや、彼らは互いに相手のせいで地位を失った恨みをもっているためガチで不仲で、相手を貶めようとさえする点が秀逸。表面上の利害はまったく一致していないのに、お互い音楽に嘘を付けないという一点だけで結果的にセッションになる終盤の展開はガチで素晴らしかった。結果だけ見ればなにも解決しておらず(コンペは台無しだし彼らは地位を失ったままである)たった一曲気持ちよく演奏しただけなのに、一曲に命を賭けられる彼らだけは満足していられる、そういう刹那性がすごく好き。そしてその流れに説得力を持たせる二人の鬼気迫る演技と演奏。さすがに名作。


ヒトラーのための虐殺会議

★★★☆☆

ホロコーストを決行することを議決した実在の会議をモデルにした映画。終始会話劇でありダイナミックなアクションや感動的なシーンはないが淡々と虐殺の方法やコストについて議論する様は狂気を感じさせる。

この映画の面白さの根底にあるのは一般的な会議なのに議題が虐殺であるという点。

軍人やら役人やらは各自の専門分野に基づいてコストやら法律の運用やら対象者の線引きについて話しているだけなのに議題が議題だから全てのシーンが恐怖演出と化している。

重要なのは彼らの間に倫理が働いているかどうかであり、当初はヒトラーに逆らえなくて嫌々会議しているのかと思っていたが、実は参加者は全員が優生思想や差別意識に染まりきっており虐殺自体には誰も反対していないというオチがいい。

それでもユダヤ人も一応同じ人間という意識はあるので会議形式で個人の責任を分散させているのが上手い(直接殺害という単語を使わないのもここに係ってくる)し、独裁者であるヒトラーと対比されている(タイトルのヒトラーの「ための」という言い回しも責任逃れ的な意味で秀逸)。

まあ彼らの倫理観的には現代で例えると鳥インフルに感染したニワトリを殺処分するくらいの感覚かなと思いながら観てた。


花束みたいな恋をした

★★★★☆

映画に疎い俺でも知ってるくらいヒットした作品。あまりにもありふれたラブストーリーなのにヒットした理由は、シナリオがありふれすぎているゆえに一般層の共感を集めたからだろう。また作中に頻繁に登場する実在の漫画や小説、作家やゲームがサブカルオタクを刺激し彼らを取り込むことにも成功している。総じてこの映画は幅広い層の共感を集めることに特化しており、「共感」というフレーズに着目するとかなり計算されて制作されていることが分かる。

本作の肝は彼らがどこにでもいる男女ではなくサブカル趣味であるところに集約される。もう完全に偏見だが、サブカル趣味の連中は大衆の触るコンテンツを浅いと切り捨て、自分はあいつらより分かっている、見る目があると彼らを内心見下している。しかしサブカルはマイノリティだからサブカルチャーなのであり、同士に巡り会うことは稀だ。だからこそ麦と絹はマイノリティ同士その思想や価値観に共感し意気投合し、あっという間に交際に発展する。しかし社会人になり金や結婚など現実的な課題を避けて通れなくなり次第にすれ違っていく。これを学生の未熟さと社会人としての成熟という観点で捉えることもできるが、彼らが別れた理由はお互いに共感ができなくなっていったからと言うこともできる。

麦は最初はイラストで食っていこうとするも就職して以降現実的になりイラストレーターの話は一切しない。それどころかサブカル趣味の時間を削って残業や勉強をしている。読書や映画のようなリソースを使うことができなくなりソシャゲしかできなくなる描写がやけに生々しい。一方絹は就職こそしたものの腰掛け程度で本当は好きなことを仕事にしたいと思っているし、家に帰れば学生時代のようにサブカル趣味に没頭している。麦が仕事に精を出すのは絹と結婚するためであり、一方絹は麦のことは好きだが結婚という現実的なワードに実感がなく趣味の時間も捨てられない。麦にとって絹はサブカル趣味よりも大事である一方、絹は彼氏も趣味も同じように大事なのだ。彼らはお互いのスタンスを理解こそすれど共感はできないためやがて修復不可能な断絶を生むことになる。彼らはサブカル故にこれまで無意識のうちに他人を線引きして生きてきた。趣味の話をする友人にしても昭和的価値観の家族との対話にしてもそうであるが、ウチとソトがはっきりしている。ゆえに共感できなくなり一度ソトにカテゴライズしたが最後、お互いあっさりと別れを決断する。彼らが悩んでいたのは別れ話の切り出し方であり破局自体は決定事項なのだ。最終的にファミレスで、出会った当初と同じシチュエーションにあるモブ男女を目撃し彼らに共感したことがきっかけとなり破局が確定する。

この「共感」というフレーズは作中だけでなくメタ的にも機能している。自分は大衆とは違う、自分は大衆には理解されないと自らを線引きし彼らを見下していたサブカル連中が、結局はありふれたラブストーリーにパッケージングされキャスト目当てで映画館に来た大衆に共感されるという構図は凄まじい皮肉である。そして超大物キャストを抜擢し計算されつくしたヒットを記録してしまったがゆえに、知る人ぞ知るポジションの映画にもなりきれず日本中から支持を集めあらゆる層に共感される映画になってしまったのはグロテスクで涙が止まらない。面白かったけど色んな意味で二度と見たくない映画。


半グレVSやくざ

★☆☆☆☆

マジでつまらなかった。演者がボソボソ喋る上に虫の声や川の水音などの環境が被さってそもそも台詞が聞き取りづらい、任侠ものなのにバトルシーン皆無、一時間ちょいしかないのに不要な拷問シーンを連投したり微妙な間のカットなど尺稼ぎが目立つなど誉めるところが見つからない。

特にひどいのが終盤の展開だ。ヤクザの元組長である英治は自分は堅気に戻ったからと半グレとの抗争に関与しなかったが、仲間が惨殺されたのをきっかけに半グレと戦う決意をする。ここだけ見れば情に厚いスタンダードな任侠ものであったが、半グレへの報復内容がダサすぎる。中盤で英治は半グレ幹部から奇襲を受け松葉杖スタイルになるのだが、英治はいい年のオッサンなので自分が負傷を気にかけず喧嘩に向かうようなことはせず、半グレのボスを子分に誘拐させ、松葉杖でヨボヨボ歩きながら陰湿な拷問でボスを殺害するだけ。あれだけ子分に英治さんは最強だからと持ち上げさせておきながら最後まで闘わないとは思わなかった。半グレボスが闇落ちした理由が英治にあったことが判明しても「俺はヤクザだから」と開き直り。これまでの堅気に戻った生き方を全否定するカスのオチ。喧嘩せず、強さも見せず、男としての一本筋の通った侠客としての精神の高潔さも見せない最悪の逆張り展開で終わりすぎている。俺の550円を返してほしい。


美女と野獣(実写)

★☆☆☆☆

全然面白くなかった!これは元がかなり古い作品かつ教訓ありきの寓話なのでしょうがない面もある。映画自体はなんとか元ネタを面白くしようとする気概を感じられた。

「人間の本当の良さは外見ではなく内面」という教訓を肉付けした話で、その教訓自体はかなり分かりやすく提示されるので誰でも理解できるが、マジでキャラクターの魅力が皆無で苦しかった。野獣は見た目が悪い分いいやつかと思いきや少なくとも善人ではなく野蛮な男で、段々まともにはなっていくのだが少なくともベルが惚れるのは強引な展開と言わざるを得ない。確かに終盤ベルを助けるカッコいい描写はあるが、いじめっこが改心したら誉められるロジックそのもので、俺は冷ややかな目で見てしまう。ベルの家族まわりもタカビーだったり歪んでいたりで印象が悪い。

総じて、世間の評価と俺の評価が乖離していて別の映画を見ていたまである。アマプラで検索して一番上に出てきた2016年版を見たが2017年版やらアニメやらもある上に微妙にストーリーが違うらしい。他のバージョンは本当に名作だったりするのか?


ジャッジ!

★★★☆☆

星4に近い星3。邦画が洋画に映像美やらスケール感で勝つのは無理なので、こういうコメディタッチな方向性のほうが邦画は好き。良いCMを作る話ではなく特定のCMをどう表彰させるかという審査にスポットを当てた映画。品評会を描くにあたり評価に恣意性を絡ませやすいCMをモチーフにしたのはなかなか面白い。例えば映画やアニメならある程度尺があるのでつまらないものは大抵の人がつまらないと評価する。一方CMは数秒で終わるため普遍的な価値基準が存在せず、人によって評価尺度が変わるので恣意的に評価を決定しやすい。またCMの存在価値は映像を楽しんでもらうことではなくあくまで商品を宣伝することにある。そのため映像の良し悪しとCMの評価はイコールではないのも秀逸な設定といえる。

不正がまかり通り利権や制作側の都合で賞が決まる作中のCM品評会において主人公だけはクオリティの高い作品に賞を与えようと論説し、最終的には主人公の望んだ結末を迎えるのだが、結末以外は全く思い通りにならず面白い。賞を取れたのはクオリティが高いからというよりは審査員を貶めたのが直接的な理由だし、主人公が手掛けたクソCMはミーム化しヒットする。広告という業界においては売れることが正義であり、それは作品自体のクオリティや利権に左右されなず誰にも制御することができない、ある種のフェアさと不条理さを孕んでいる。そういった世界や人間の不条理さをコメディの膜で包みエンターテイメント化する手腕が見事な作品。


アナザーラウンド

★★★☆☆

飲酒の両義性について描いた映画。要するに酒は百薬の長であると同時に危険性も孕んでいるという教訓を伝えるストレートな作品だが、俳優の演技がよくて退屈せずに見ることができた。作中では飲酒の負の側面も描写されるが、どちらかというと飲酒を肯定するような作風になっている。実際適量の飲酒は主人公らの人生を好転させたし、成績に悩む学生に飲酒させて試験に合格させるシーンもある。終盤では飲酒が原因で友人が死んだにも関わらずそれでも主人公は飲酒し陽気に踊って映画が終わる。

俺は全く飲酒しないので間違ってるかもしれないが、飲酒したからといって仕事ができるようになるとか頭がよくなるとか腕力が向上するとかの能力上昇は起きない。ただ飲酒の醍醐味はその酩酊感にあって、一時的にメンタルに良い影響をもたらすらしい(酔ったことないので真偽不明)。結局のところ、彼らを悩ませていたのは中年になったことで生まれた孤独感であった。人生も後半戦にさしかかり、能力的にも価値観的にも時代に取り残され始める世代であり、そうしたギャップをきっかけに仕事や夫婦関係の歯車が狂い始める。マーティンらに足りなかったのは能力それ自体ではなく能力を行使する彼らのメンタリティにある。だから常時酔っぱらい鬱屈とした気分を晴らすことで仕事も夫婦関係も改善されていった。幸福な人と鬱病の人とでは同じ景色を見ても世界が異なって見えるように、飲酒で躁状態になることは彼らの世界を一変させたのだ。ラストでマーティンが歌ったように、飲酒とは世界を美しく感じさせる行為なので、友人が死のうが彼らはそれをやめられない。この年になるとメンタリティが自身に及ぼす影響もわかり始めてきたので、いつの日か俺も酒に頼る日が来るのかもしれない。


ドラゴンボールEVOLUTION

★★☆☆☆

まあ面白くはなかったが前評判ほど酷くもなかったと思う。この映画が酷評されている理由として原作へのリスペクトがない点のウエイトが大きいが、俺は漫画の実写映画は原作に忠実である必要はないと思っているのでこの作品が原作を無視していても気にならない。確かに原作に出てくる単語を上辺でなぞったような使い方は不愉快ではあるが、原作があることを無視して独立した単体の映画の設定と認識してしまえばそこまで変でもない。大事なのは原作通りかではなく映画として面白いかどうかである。原作に忠実であることを求めるならアニメなど映画以外の媒体のほうが適しているわけで、実写映画ならそれに合った演出や表現をしてくれれば全然許せる。まあこれは純粋に映画としてつまらなかったんだけども!

本作はナードが力に目覚め英雄になるというアメコミヒーロー映画のフォーマットに則って作られているためストーリーラインの最低限のクオリティは担保されている。ヒーロー映画は大衆に受け入れられ面白いと思われるからテンプレート化しているわけで、ストーリーがありきたりでも結果的に赤点は回避できている。ただ普通にアクションがしょぼいし話も全く面白くないため映画としてクオリティが低いことは全面的に同意する。90分と尺が短いのでそこまで時間を浪費した感はなく、複雑な設定のない単調な映画なので見れないほどではない、という理由で★2としている。


さよならの朝に約束の花を飾ろう

★★★☆☆

詰め込みすぎな感はあるがやりたいことは伝わった。この映画を観て真っ先に連想したのが細田守の『おおかみこどもの雨と雪』だ。どちらも女性が色々な困難に振り回されながら一人で子育てをしていく点が共通していて、感動を誘いやすい内容になっている。ただ本作の主題はそういった母子家庭事情というよりは長命種が短命の他種族を葬送する点にある。母子家庭要素は親子に愛着を持たせラストの葬送展開に共感させるためのフックに過ぎない。まあ分かっていてもマキアがエリアルと過ごした人生を回想しながら彼を弔うシーンはベタながらに涙腺にくるものがあった。

最後まで観て思ったのはこの映画における愛情の考え方についてだ。したことない分際で語るのもなんだが、育児とは愛情を注がれる側から愛情を注ぐ側へとシフトしていく行為であり、前提として自己犠牲の精神が必要とされる。マキアがエリアルを拾ったのは可哀想だったからという理由かもしれないが、次第に母親としての自覚,、自己犠牲精神が芽生えてくる。見知らぬ土地で仕事をして頻繁に引っ越しをし、言い寄ってくる異性を遠ざけるなど、彼女はどんな犠牲を払ってもエリアルを育て上げることのみを自身の人生の目標としている。マキアに代表されるように、本作において愛情とは何かを喪失することを意味する。マキアは自身の幸せを失うことと引き換えにエリアルを育て、本当は彼とずっといたいと願いながらもエリアルの結婚イベントを境に彼と距離を置く。それはラストにマキアがエリアルを葬送するシーンへと繋がる。エリアルの幸福を想うことは自身の幸福の喪失を意味し、その最終地点が最愛のエリアルを弔うことになるのは筋が通っている。これはマキアに限った話ではなく、マキアに告白するも身を引くラングだったり、王女を救出するために長い期間暗躍したクリムだったり、種族や子供のために望まない生活を続けたレイリアだったりとほとんどの人物にあてはまる。そういった愛情と自己犠牲のトレードオフな関係を、「切なさ」から連想される感動でパッケージングしているのが『さよ朝』ということになるが、俺はこういった手法は結構好き寄りなのでまんまと感動してしまった。


アラジン

★★★★★

これは本当に面白かった!キャラクター、演技、アクション、音楽、ストーリー、演出など全てのクオリティが高くエンタメとして完成されていて文句の付け所がない。地位や名声、富といった外付けの要素ではなく内面が大事なんですよという教訓は『美女と野獣』に続いてディズニー作品に共通する価値観なのだろうが、説教臭くなく作品に落とし込めている。それ以外にも友情やラブロマンス、冒険要素、ミュージカル要素も盛り込んで二時間という尺に収め、なおかつ映画として面白いのは相当すごい。

キャラクターの話をするとアラジンが結構好きで、盗みはやるが優しく、ユーモアがあって賢く、同時に年相応の幼さも持ち合わせているので成長が必要というそれなりに複雑な要素をうまく表現できていると思う。彼の貧民故の自由さは、高貴だが不自由な暮らしを送る姫ジャスミンと対比される。これは格差婚の問題に発展し、ディズニー御用達の外面より内面が大事、縛られず自分の自由に生きることが素晴らしいという思想は最終的に姫だけでなく王や側近も共有することになる。また魔法のランプで権力を持ったときの振る舞いは悪代官ジャファーと対比される。アラジンの優しさは猿のアブーや魔神のジーニーも魅了し、ピンチの時に彼を助けるようにぬる。一方ジャファーは王となった瞬間他人を支配し、その強欲さが仇となって敗北する。アラジンを構成する各要素がディズニーのテーマと密接に連関している構成が見事という他ない。考えれば考えるほどレベルの高い作品で傑作といえる。


カラオケ行こ!

★★★★☆

起承転結がしっかりしていて教科書のような構成!アホみたいなあらすじから話をまとめて感動まで持っていく手腕は銀魂に近い。本作はカラオケが上手くなりたいヤクザの狂児とどこか冷めた合唱部中学生の聡実の友情を描いた映画。狂児には歌の技量が、聡美には熱量や素直さが欠けており互いにそれらを学んでいく展開はベタながらよくできている。

冷静に考えたらカラオケが上手くなりたいのに合唱部の中学生に教えを乞うというのは意味不明だ。というのもカラオケで高得点を取るのに必要な技術と合唱で賞を取るのに必要な技術は違うからだ。聡美は合唱部らしく己の感情を抑え周囲との調和を取る歌い方をするが自身の変声期という壁に突き当たる。一方狂児は聡実の指導を受け入れはするものの自身のこだわりを捨てられず技術の向上は見られない。というか狂児は初期から割と歌が上手い。さらに狂児の目標はカラオケで高得点を取ることではなく組長を満足させることなので、本当に技術の向上が役立つか不明である。以上のように狂児が聡実に教えを乞うプロットは突っ込みどころが多いが、聡美の課題を解決するには効果的なプロセスであると言える。彼の課題は2つあり、1つ目の本心を素直に口に出せないことについては、ただでさえ怖いヤクザに歌のダメ出しをしたり組長に説教できるようになったことで、2つ目の変声期で合唱できない問題についてはラストの独唱でシャウトすることで乗り越えられる。どちらも狂児と友情を深めることで生まれたものであり、聡実に必要だったものは小手先の技術ではなく狂児が「紅」に込めるような熱量であった。ラストのシャウトは聡美の成長そのものであり、下手くそで声ガラガラの歌でも組長や子分を感動させられることを示すハートフルな展開だ。

…という話をしようと思ってネットの感想をググってたら聡美はラストのシャウトでも歌うまいし狂児は初期から下手くそらしくて俺の音感のなさを思い知らされて悲しくなった。もしそうならここまでの俺の感想が若干覆ってくるんだが!?まあその辺の認識のズレを抜きにしてもテーマと構成がシームレスに接続されていていい映画だったと言うことができる。


オーシャンズ11

★★★☆☆

映画自体は面白かった!何の予備知識もなく頭空っぽにして楽しむことができてイケメン俳優たちの小粋や台詞やカッコいいアクションシーンを見ることができる、俺がイメージするアメリカンな映画ど真ん中って感じの作品。デートとかで見るのに最適なタイプの映画と言える。ただエンタメ全振りであるゆえに深い学びや教訓、感動して心に残るような作品ではない(こういうのをポップコーンムービーと呼ぶらしい)。映画を時間を潰せる娯楽作品として見る層と何かしら学びを得ようとする層で評価が分かれると思う。俺は後者なのでそこまで刺さらなかったけれど、これは映画が悪いわけではなく単純に好みや目的の問題である。映画の内容の話をするとまあ色々と突っ込みどころはあるが、大事なポイントは押さえているので見終わると些細なことは気にならなくなる。この手の映画に整合性とか細かい指摘をするのはナンセンスで、徹底的に大衆を楽しませることに特化しているので加点方式で見ると評価が上がると思う。


南極料理人

★★★★☆

これは結構面白かった。南極基地で過ごす8人の隊員にフォーカスした映画だが、ホモソーシャルなコミュニティの描写が抜群に上手い。オタサーや男子校にいた人なら共感できる部分も多いと思うが、余暇時間に何の目的もなく麻雀したりくっちゃべったりといった過ごし方の空気感にリアリティがある。俺が思うにこの映画でキーとなるポイントは髭や頭髪といった衛生面だ。作中において隊員たちはしょっちゅう髭や髪が伸びてボサボサになる。これは異性がいないから身だしなみに気を使わなくなるという男だけのコミュニティを象徴するモチーフであると同時に、彼らが少しずつ狂っていく様を象徴しているものであるからだ。家族に会えないとか彼女に振られたとかラーメンの材料が切れたとか、南極での生活で些細なトラブルから隊員らは徐々に疲弊していく。そうしたストレスは彼らの態度に出ると同時に身だしなみという表面的な部分に顕著に表れる。温かなコミュニティの雰囲気と極限状態の危機感という対照的なイメージを接続しているという点で、この映画における身だしなみの描写は優れている。

さて、主人公は基地での調理担当であるが南極基地という娯楽の少ない閉鎖空間において「食」が担う役割は大きい。作中においては様々なトラブルが発生し、食事をすることは直接的な解決にはならないが、解決に向かうための精神的な充足を促すという点では間接的に役立っている。この場において食事とは、単なる栄養補給のほかに貴重な娯楽、精神の回復の役目も持っている。食欲というプリミティブな欲望は下位の欲望に波及し結果的に隊員らはトラブルを解決する。また終盤で皆が共同して食事を作る流れもコミュニティの団結と序盤で忘れていた食事の重要性を認識するエピソードを同時にできて上手い。全体的にコミカルなので積極臭くなく、食の重要性を様々な角度から証明する良作。

補足:堺雅人演じる主人公は昭和の母そのものである。献立に文句を言われようが盗み食いされようが決して怒らず平静を装っている。極限状態にいることは全員同じで、最もストレスを受けているのに耐えている辺りがそう感じさせる。いつもの堺雅人のキャラクターを知っているので彼がいつブチギレるのかと思っていたら結局声を荒げることはなかった。この映画は男のみのコミュニティでありながら、隊員を疑似家族と定位してホームドラマをやっているのだ。


殺人の追憶

★★☆☆☆

面白い面白くないというレイヤーで語れば面白くないんだけど、それ以前に生理的な不快感を真っ先に抱いた映画。不快な点はいくつかあって、第一に衛生的な不快感がある。舞台は80年代の韓国だが、町の風景や人物の顔つきから室内の様子まで全てが不衛生な感じがして画面を直視するのがきつい。付随して画面や作品の雰囲気ぐ全体的に陰鬱としているのも体力を削ってくる。第二にキャラクターが全員不愉快。主人公らは刑事だが杜撰な捜査で赤の他人を拘束し、拷問に近い取り調べで自白や証拠を捏造した上に誤認逮捕が発覚しても悪びれもしない。責められるとブチキレて焼肉屋で民間人に暴行を加える始末。聡明そうな顔してメンバー入りしたソ刑事は最初こそ捜査方法に文句を言っていたものの次第に彼らの捜査方法に近付いていき、ラストではシロの男にピストルを乱射するどうしようもなさを見せる。これらの不快感は意図的なものであり、むしろ鑑賞者に不快感を与え続ける監督の手腕が見事で映画のクオリティ自体が高いことは言うまでもないがきついものはきつい。

この映画で語ることがあるとすれば徹底してアンチミステリーな展開を辿る点だろう。杜撰な捜査をしていた刑事課にソウルから来たソ刑事がやってくるというあらすじなら、いがみ合ってた二人が結託して最終的に犯人を逮捕するというのがベタな展開であるが、ソ刑事も焦りと苛立ちから闇落ちしてしまうし犯人も誰か分からず終わるというのがこの映画だ。この展開を誉めるなら現実のやるせなさを終始陰鬱な雰囲気で描ききった名作と語ることができるが、個人的には逆張り展開のなかでは王道なのでそこまで評価は高くない。むしろクソ刑事たちが最後まで犯人を特定できないという報いを受ける逆スカッとジャパン展開にスッキリした。まとめると、面白くはないし不快だから二度と見ることはないけど、逆張り展開として今後引用することはあるかもしれないくらいの作品だった。


ペルシャン・レッスン

★★★★★

面白かった!自身をペルシャ人と偽りナチスの迫害を逃れようとするユダヤ人の話だが、生き残るため架空のペルシャ語を教えるという設定が秀逸。映画に限らないが、サバイバルものは物資も人材も不足している初期状態が最も過酷で、段々生存の難易度は下がっていくものが多い。なので大抵の作品は敵を強くしていくとか全く別方向の問題をぶつけるとかして緊迫感が下がらないよう工夫している。その点本作は架空の言語を教えるという都合上、難易度が尻上がりに加速していく。単純に覚える単語は増えていくわけだし、過去に創作したものと少しの矛盾も発生させてはいけないからだ。文法や単語と言った言語の問題以外にも、本当のペルシャ人に遭遇した瞬間ゲームオーバーという問題も永遠につきまとう。そういった多角的なスリルを主人公レザと鑑賞者でリアルに共有し続けるのでずっと気が抜けない状態で没入感がある。

また人物描写も光るものがある。レザは序盤では死にたくないのでペルシャ人と嘘をつくが、自分を庇って命を落とした囚人を見て自分の命より誇りを尊重するようになる。一方レザに架空のペルシャ語を教わる大尉は徐々に彼に心を許し、改心し彼だけ収容所から解放するに至る。ここまでだとお互い成長したねで終わってしまうが、この作品が優れているのは二人の関係性にある。一見レザと大尉はペルシャ語教室を通じて成長し心を通わせたように思えるが、実際のところ囚人のレザと大尉には明確な上下関係が横たわっている。いじめっ子がいじめられっ子に急に優しくしてもいじめられっ子が心を許すことがないように、レザと大尉では見えているものが違うのだ。大尉はレザに特別待遇をしたことで関係性を作れたと思っているが、施しをする側される側は対等ではない。レザ視点だといつ殺されるか分からない状況だから従順でいるだけなのだ。結局のところ大尉がどれだけレザに優しくしようが、序列が解体されることはないので断絶は埋まらない。だから勝手に改心したと思っても客観的に殺人者である大尉は報われないし、レザは大尉に感謝することもない。この辺のバランスが上手く最後までダレずに楽しむことができた。


怒り

★★★☆☆

3組の地点で疑念と信頼をテーマに展開される群像劇でつまらなくはなかった。それぞれ地点で登場する3人の男は、いずれも素性が分からないが次第に周囲に溶け込み人間関係を構築していく。ところが彼らが整形した殺人犯ではないかと疑われ始めるというのが簡単なあらすじだ。容疑者はいずれも素性が分からず、作中の人物と視聴者では容疑者に対する理解度が同じであるため、3人の誰が犯人なのか、誰が信じられるのかを作中のキャラクターと視聴者でリアルタイムに共有できるのはよかった。

この映画での問題提起として、「周囲に疑われている人間を信じることができるか」というのがある。容疑者への信頼を担保するものは短い時間で築いた主観的な関係性のみであり、客観的に見れば彼らは素性が分からない本心も読めない男たちなのに、それでも彼らを信じられるかがテーマとなっている。この問い自体はそこまで珍しいものではないし特段語ることもないが、その問いへのアンサーがあまりよくない。まず犯人でなかった二人については彼女やら彼氏やらは二人を信じられなったゆえに離別してしまう。一方で容疑者を信じた少年は信じんた男が犯人だったという裏切りを受ける。おまけに犯人はカスみたいな動機で事件を犯す異常者で何の救いもない始末。信じることの大切さみたいな話にするなら展開が逆だし、タイトルの「怒り」に繋げるにも安易な逆張り以外の感想がない。俺的には普通に後味の悪い映画という評価にせざるを得ない(一応少しは救いはあるが)。


最強のふたり

★★★★☆

ヒューマンドラマ好きの俺にとってあらすじを見た瞬間好評価が確定した映画。半身不随になった富豪フィリップの介護人としてスラム出身の黒人ドリスが雇われる実話ベースの映画で、正反対の二人が意気投合していく様子が描かれる。彼らは対照的なのになぜ仲を深められたかという問いは作中でもなされ、互いに同情せず他人と区別しないからという回答がなされる。ドリスはフィリップが障害者だからと必要以上の配慮をせず、障害弄りまでかます。一方フィリップはドリスの家庭環境の悪さや学のなさをバカにせず対等に扱う。この辺りの区別と差別、配慮と遠慮みたいな話は福祉に分野に足を踏み入れれば必ず目にする話題だ。障害者扱いされたくない障害者もいれば障害だから健常者以上に配慮してほしい障害者もいる。要するにどのような扱いをするかはケースバイケースで、人となりを知らないと決められないという話である。ドリスのような男は一般的にはデリカシーがなく配慮に欠けると判断され社会に適合できない。かたやフィリップは気難しいところがあり普通の介護人では過剰配慮で拒絶される。たまたまマッチングが上手くいっただけでありこのエピソードに汎用性はないが、だからこそ奇跡的でありタイトルのように最強(過剰表現)の二人になるという逆説は良い。


スイス・アーミー・マン

★★☆☆☆

無人島に流れ着いたハンクが同じく流れ着いた死体のメニーを使い脱出を目指すサバイバルで、死体を使うアイデアは素直に感心したし、死体から出るガスをジェットスキーのように使い海を渡るオープニングは斬新で面白かった。が、良かったのは最初の10分だけでそれ以降マジでつまらなかった。割と序盤でメニーが感情を持って喋りだした段階で冷ややかな目で見始めたが、そこから謎ロマンス展開が始まって萎えまくったそこからこれまた謎のチープな感動展開があったが半分気絶していて覚えていない。まあ百歩譲って謎展開自体は許容範囲だが、俺が最も残念に感じたのはサバイバル要素の方だ。この映画の肝は死体をどうか活用して無人島でサヴァイヴしていくかという点にあるが、中盤から明らかにメニーが死体の範疇を超えた用途で利用され始めるのがよくない。ガスで海を渡るのは死体からガスが出ることの延長だし、夜中に口に溜まった雨水を排出して飲み水を確保するのもまあ分かる。ただ喋り始めたり勃起の方向が方位磁針にあるのは最早死体ではなくただの血色が悪い人間でしかなく、死体である意味が全くない。死体を連想させない使い方ができるのであれば何でもありになってしまい、例えば死体が飛行機に変形して家に帰るのも許されることになる。この辺の所謂超展開をどこまで許容できるかは人それぞれだと思うが、バカ映画だから何やっても許されるわけではなく、サバイバル映画としての意最低限のルールは守って欲しかった。


沈黙(サイレンス)

★★★☆☆

江戸時代におけるキリスト教の弾圧について描いた作品で、面白さ自体はそこそこだが色々と学びになる映画。この作品でのテーマは色々あると思うが、俺的には後半でキチジローの発言がミソだと思う。幕府によるキリスト教の弾圧に耐えかねたキチジローは「昔はキリスト教は迫害されなかった。たまたま迫害される今の時代に生まれただけだ」と話す。この発言はこの映画を貫く「価値観の相対性」について触れた数少ないシーンであり象徴的だ。価値観の受容度合いというのは地域や時代によって大きく変わるものであるというのは多くの価値観を俯瞰できる現代なら容易く理解できると思う。江戸時代に迫害されていたキリスト教も現代日本では当たり前に浸透しているし、一方で現代においても特定の宗教が禁じられている地域は存在する。ある特定の価値基準は、地域という横軸と時代という縦軸で受容のされ方が違うのだ。俺はこの映画の冒頭で宣教者の欧米人が日本人に拷問されるシーンを見て驚いた。というのも、俺の中で欧米人とアジア人というと前者の方が強者であり、またキリスト教は世界中で受け入れられているという先入観があったからだ。ただ、今俺が信じているこの価値観はいついかなる時代、地域においても適用されるものではなく、現在の俺の中でしか適用されない限定的な思想でしかない。令和基準でこの映画を見ると「ロドリゴたちは悪いことはしていないのに迫害されるなんて幕府は酷い」と思う人もいるはずだが、当時の幕府視点で考えると異国から得体のしれない思想が持ち込まれれば危機感を持つのも当然と言える。オウム真理教の事件を考えれば分かるが、新興思想が猛烈な勢いで信者を獲得しているのは政府にとって脅威でしかない。その思想が善か悪かはそれこそ相対的なものでしかないので警戒するのが自然ともいえる。

また後半でフェレイラが仏教とキリスト教について語るシーンも示唆的だ。八百万の神という言葉があるように、仏教においてはあらゆる物に神が宿り、人間は神に近付けるよう修行する。一方でキリスト教においては神はイエス只一人であり人は神になれない。そういった価値観の相違があるため仏教国の日本でキリスト教は根付かないと彼は話す。これも価値観の相対性であり、たまたま江戸時代の日本では仏教的価値観が先に根付いていただけの話だ。最終的にロドリゴが棄教したのは目の前の苦難に対しイエスが沈黙し救済してくれないからでも日本での布教を諦めたからでもなく、単に目の前で処刑される人を救おうとしたからに他ならない。ニーチェが神は死んだと言ったのは19世紀になってからで、当時のロドリゴには神の真意は分からない。あの瞬間の彼はただ自身の善性に従い棄教したのだ。価値観の相対性とは特定の思想が周囲に受け入れられるかどうかということであり、個人が特定の思想を持つことそれ自体には絶対性がある。逆説的に言えば、一般的にはどれほど過激で反社会的な思想だろうと個人の内心においては絶対的に保障される。数多の信者が拷問のなか棄教せず死んでいったように、ロドリゴは社会的には棄教していても内心においては絶対的なキリスト教信者であったことがラストシーンで明かされる。価値観の絶対性/相対性という観点で考えるとこのラストは筋が通っていて美しい。そこまで面白くはないが、なかなか引用価値が高い作品だと思う。


フル・モンティ

★★★★☆

なかなかよかった。薄々気付いてきたが俺は映画では冴えないおっさんが主役のものが好きな傾向にあるらしい。加えてコメディなので初期状態で既に補正がかかっている。無職のおっさん集団が一気に稼ぐためにストリップに挑むというシナリオも良い。現代ならスキルのない人間が一発逆転するのにYouTuberを目指したりするのだろうが、本作ではストリップであることそれ自体に意味がある。作中において彼らを苦しめていたのは無職であることや太った体型といった恥の概念であった。彼らは皆無職なので失うものはないと言うが、実のところ最後の砦としてそうした恥の精神が残っている。無職だと妻や世間にバレたくないしデブの腹を周囲に見せたくもない。ストリップは大金を稼ぐ手段であると同時にそういった恥をパージする儀式でもあるのだ。冷静に考えて一度ストリップしたからといって一生遊んで暮らせる金を手にすることはできない。実際ストリップ前に再就職したメンバーもいて、最終的にストリップは生計を立てるために必要なものではなくなっていた。それでも彼らがストリップに挑むのは、それを通じて自己肯定感を高め、人生を好転させたいという思いが共通していたからだ。

そもそもストリップは裸体を見て性的興奮を得るための催しなのでおっさんの裸には需要がない。彼らのストリップショーのチケットが売れたのは嘲笑の意が大きい。彼らはショーにおいてだらしない中年の裸体と陰部をさらけだすことで文字通り身も心も裸になる。普通なら世間の爪弾き者として生きる他ないのだが、なぜこれが彼らの人生を好転させることになるのか。それらを接続するキーこそ、この作品がコメディであることの意義でもある。すなわち彼らの覚悟をシリアスに冷笑するのではなくコミカルに笑い飛ばすことで、底辺の見世物から頑張るおじさんの記録へとショーを昇華させることができる。つまり笑い飛ばす事こそ彼らを肯定することなので、彼らのショーが上手くできているかどうかはそこまで関係ない。おじさんのだらしない肉体という外向きの意味と、デブでも無職でも頑張っているという内心の高潔さ、それらをストリップという恥の概念で接続しコメディで仕立ててまとめて肯定する構成は見事。


プレステージ

★★★☆☆

結構難解で解説ページをみてようやく理解したが、意味が分かると相当クオリティの高い映画だと分かった。二人のマジシャンが互いへの復讐のために競い合う話だが、ネタバレなしで面白さを語ることができないのでとりあえず見て欲しい。勧める割に★3なのは俺がミステリーにそこまで興味がないだけである。俺はアニメでも漫画でも映画でも好きな作品は何度も見返したいタイプなので、初見のトリックのタネを理解すると2回目からの楽しみが大きく逓減するミステリーというジャンルは俺の嗜好と相性が悪い。ただ本作はトリックの秀逸さの他にも魅力があるのが優れている。

本作のテーマであるマジックには確認(タネや仕掛けがないことを観客に確認させる)→展開(マジシャンが消えるなどマジックを展開する)→偉業(消えたマジシャンが戻る)の3段階があることは作中で明示されている。この構成はミステリーというジャンルにも当てはめることができ、事件が起きる→仕込み(事件解決のヒントを散りばめていく)→トリックの開示と言い換えることができる。そしてそれは序破急といった映画というジャンルへのメタ要素にも適用され、本作も意図的にその三段構成で作られている。マジック、ミステリー、映画、こり全てに共通するのは最後のオチでいかに観客を驚かせるかという一点だ。この刹那性はマジックに命を懸けるアンジャーとボーデンそのものであり、キャラクターの観点で見てもメタ的な映画と言える。


トイ・ストーリー

★★★★★

これ面白すぎないか?アラジンに続いてディズニー作品の高評価が続くが、これは忖度しているわけではなく単純にディズニーの平均クオリティが高いからだ。

まず人の顔が覚えられない俺にとって、登場キャラクターがオモチャであるゆえにシルエット全体を通して他キャラクターと差別化されているのは高評価だ。また普通の映画なら主要キャラは全員人間なので、彼らがどんな役割で配置されているのかはあらすじを読むか作品をちゃんと見ないと分からない。一方でオモチャはその種類ごとに役割が規定されているため、彼らを一目見ればそれがどんな役割なのか瞬間的に分かる。つまりオモチャという設定はビジュアルでの識別だけでなく役割の識別までもを容易にする優れたモチーフである。

さらに本作ではオモチャは役割が規定されているという特徴からアイデンティティの問題に派生していく。バズは自分がスペースレンジャーだと思っていたが本当はただの玩具で、彼自身はスペースレンジャーの能力がない劣化品だと判明し自身の存在意義について悩む。最終的にバズは自身が能力とは関係なくアンディに愛されていると知ることで新たなアイデンティティを確立するに至る。この流れを実存主義的に考えれば、製造段階で道具としての用途(本質)が決まっているオモチャが、用途の決まっていない生き物(=どう生きてもいい)へ変化していく過程だと言い換えることができる。この考えはディズニーのリベラル思想ど真ん中で本作のみの長所とは言えないが、オモチャという設定がディズニーの思想とあまりに噛み合いすぎていて舌を巻く。さらに冒険や友情、アクションやホラー要素もあるため積極臭くなく飽きずに楽しめる。これだけ色々詰め込んでるのに一時間ちょいしかないのはコスパがよすぎる。俺に子供ができたらとりあえず見せたい作品。そのうち続編も見ると思う。


お嬢さん

★★★★☆

あらすじに惹かれなかったため全く期待してなかったが、予想外の展開でかなり面白かった。当初サスペンスと思ってみていたが本編は中盤でのトリック判明後にあり、そこから真の物語が展開される。当初詐欺の加害者だと思っていたスッキと被害者だと思われていた秀子は実は全く逆で秀子がスッキを騙していたというトリックは、普通ならトリックのタネ明かしがピークでその後おまけのようにスッキが酷い目に遭って終わりそうなものだが、この映画の要石はスッキと秀子が男性により加害されてきた被害者として結託する展開にある。それまで執拗に挿入されてきたレズシーンも抑圧からの解放という視点で見ると正当性が生まれてくる。もう少し詳しく言うと、男女が復讐をするなら普通の恋愛モノになり、男性同士で結託すれば弱者的視点が抜け落ちてしまうが、女性カップリングでは腕力で劣る弱者からの反逆、搾取されてきた被害者からの復讐という解放運動の側面を意味づけることが可能になる。スッキと秀子が本当にレズビアンであったかどうかは定かでないが、ラストの彼女らのセックスは単なるサービスシーンではなく、男性からの抑圧の解放という感動シーンであると同時にカタルシスを得るシーンでもある。トリック特化の一発芸サスペンスから一歩進み、トリックの開示が彼女らの境遇の開示を意味し、その結果更なる物語が展開される構成がよかった。


ベイビー・ドライバー

★★★★☆

『オーシャンズ11』も大概だが本作はそれを凌ぐザ・アメリカ映画。個人的にカーアクションが多彩な作品はアメリカ臭が濃くて好き。大筋だけ見ればストーリーはまとまっていて、加えてアクションとBGMの良さもあり初心者向けかつ万人受けするタイプの作品。ただ冷静に考えると引っ掛かるポイントは山ほどある。ヒロインは主人公との関係が浅いくせに執着しすぎだろとか、主人公の耳鳴り設定の消化不良感とか、さすがに全体的に敵がバカすぎるだろとか、メインキャラだけしぶとすぎるだろとか粗を探せばキリがない。このタイプの映画はテーマ性とか整合性とかそういう方向性のクオリティを求めるよりは単純にエンタメとしての楽しさを見てあげるほうが建設的だ。この手の「逃がし屋」映画は日本にはあまりないジャンルらしくジャパニーズアニメオタクの俺からしたら新鮮だった。カーアクション映画は父親が休日に頻繁に見ていて、当時は全部同じに見えるしなにが面白いのかさっぱり分からなかったが、自分で見てみるとこれはこれで独特の良さがある。アニメなら派手さを出そうとするとエフェクトや効果音を盛る方向に行くが、カーアクションでは重量感が大切なので実写のほうが映える。さらに実在の人間ができるアクションの限界がカーアクションだと考えると実写アクションの最適解が車になるのも分かる(例えば戦闘シーンを比較するならエフェクトと動きを無限に拡張できるアニメが派手になるので)。ストレートに映画っぽい映画が見れてそれなりにいい体験だった。


哀れなるものたち

★★★☆☆

映画としてはあまり面白くなかったがコンセプトはかなり興味深い。俺はこの映画を精神分析の視点から見ていて、似たようなこと考えてる奴いるだろと思ったがあまり見つからなかった。以下でこの映画がどう精神分析とつながるのか書いていく。

本作は胎児の脳を移植された成人女性ベラの成長を描いた作品である。本作が精神分析的だと主張するのは俺が適当に言っているのではなく、子の成長と精神分析には深い繋がりがあるからだ。まず先述のあらすじを精神分析っぽく言い換えるとベラが想像界から象徴界へ侵入する物語、となる。想像界やら象徴界というのはラカンの三界構造から来ていて、想像界がイメージの世界、象徴界が言語の世界、現実界が語り得ないメタ的世界と定義される。想像界はイメージの世界であり万能の空間である。イメージの世界が万能の空間というのは『NARUTO』の無限月読をイメージしてほしい。要するに思ったことが現実になるシミュレーテッドリアリティである。人間は乳児として生まれたときはこの想像界に生きている。赤子は単体では何もすることができないが、泣けば母親が勝手に要望を解釈してそれを叶えてくれる。作中においてベラの過ごす空間の背景が奇妙な絵画的風景だったのはまさにここが想像界であることを示唆している。次に象徴界であるが、これは言語の空間で普段我々が過ごす世界のことである。赤子は乳児期こそ母親が何でもしてくれるが一生そのままではない。成長において欠かせないのは<父>である。<父>は厳密には父親である必要はないが、要するに子供に厳しくして言葉や社会性を叩きこむ存在と思ってもらえればいい。エディプスコンプレックスとかの話は抜きにして簡単にまとめると、普通の人間は何でもしてくれる母の空間の想像界から、法を与える<父>の名のもとに象徴界へ参入する成長過程をたどる。

一方でベラは赤子の脳を成人女性に移植しているという点が異常である。もはやこの映画の要点はその一点にあると言ってもいい。知能は赤子なのに身体は成人というねじれの発生により、先述の常識はベラには一切適用されない。赤子は社会性がないので欲望を制御できないが、身体能力が不完全なのでバランスが取れている。赤子がおなかが空いたと感じても自分で食べ物を獲得することができないため食べ過ぎに陥ることはない。一方で大人は物理的には好きなだけ食べることができるが、お金がないとか食い過ぎは太るとか思考を巡らせ結果的に正常な範囲で食生活を送る。ところがベラの場合欲望を制御するストッパーがないにも関わらず成人の身体能力を有しているので無敵である。彼女は誰とでもセックスするしそれが社会的によくないことだという自覚は全くない。食欲、性欲、知識欲と彼女の欲望は留まるところを知らず、自身の欲望の赴くままに生きていく。彼女に社会性を与えようとする男性は何人か登場するが、明らかにベラより格下で最終的に彼女に従属していく。これは精神分析的には<父>による法の付与が不完全な状態を意味するが、ベラは異常なルーツを持つため当然の帰結と言える。彼女の成長の最終地点は<父>の克服、すなわちベラの肉体的な父親殺害にある。このあたりでベラに移植された胎児の脳はベラ自身の子供のものであること、つまりベラの元夫は彼女の夫であり父でもあるという歪んだ関係性にあることが発覚する。元夫の殺害はDV夫への復讐であると同時に<父>殺しというタブーに踏み込むことを意味する。そのため殺害方法は普通の殺傷行為ではなく元夫の脳にヤギの脳を移植するという方法で行われる。この行為の意味するところは<父>の克服そのもので、本作の象徴ともいえる。繰り返しになるが、一般的な成長過程において<父>は社会性(=法)を与える存在である。だがベラは特異な体質を持ちそれに当てはまらない。社会性を教えようと近づいてくる男性に興味を示すことはあっても、最終的には彼らを従えてしまう。それは本当の父親であっても例外ではなく、<父>の象徴たる実の父の脳をヤギにしてしまうことは、<父>の隷属化を意味し、ベラが真の意味でヒエラルキーの頂点に君臨したことを証明するものだ。無限の欲望とそれを実現できる身体を兼ね備えたベラは常識や社会性のようないかなる束縛をも無効化し、周囲の人間は彼女の欲望を満たすために従属する存在と成り下がる。だから父親を普通に殺害するのではなく、彼を隷属させるよう動物の脳を移植する手続きが必要だった。ベラは成長ー非成長という枠を超え神格化された存在にランクアップした。徹頭徹尾ベラの万能性を見せつける筋の通った一本だった。


キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

★★★☆☆

アメリカ映画って犯罪系多くね!?まあカーチェイスとか詐欺とか強盗とかのクライムアクションは、その性質上スリリングになるので題材として使いやすいのかもしれない。よくあるクライムアクションと本作との差別点は、犯人が愛情に飢えた子供である点だろう。そのためフランクがどう警察やFBIを欺いて逃走するかよりもFBI捜査官カールとの友情や愛情の入り交じった関係性の方に重きが置かれている。

詐欺や人を騙す行為は本質的に嘘が含まれる。身分を偽り金を稼ぐほど自己の虚像が肥大化し本当の自分は空虚なものになっていく。その辺の女はパイロットや医者といったフランクの虚像に寄ってくる一方で、捜査官のカールだけは彼自身を追っている捻れた関係がこの映画のミソだ。フランクには偽名で作り上げた社会的地位や富のような虚像ではなく、神がかった詐欺の手腕という才能があることをカールだけが看破している。フランクが何度逃走してもそのたびに逮捕し身の上話を聞いてあげるカールは疑似的な親であり、フランクの正しい成長に不可欠な存在となっていく。本当にフランクに必要だったのは息子が犯罪者となっても放任する実の両親ではなく、彼の才能を認め𠮟るカールだった。ただ逮捕して終わらせるのではなく、彼の能力を認めセカンドチャンスを与えるのがアメリカらしい刑罰の与え方であるし、それはフランクに向き合い続けたカールの姿勢そのものでもある。映画のタイトルは鬼ごっこの定型文であるが、それはこの逃走劇が子供の遊びであると同時に、やっていることは犯罪でありながらも広義では教育でもあることを示唆している。最後まで見るとなかなか味のある題名で染みる。


鍵泥棒のメソッド

★★☆☆☆

中盤まではよかった惜しい作品。入れ替わりネタもそろそろ食傷気味だが10

年以上前の映画だしまあいいとして、入れ替わりによって互いの生活が変化していく序盤はそれなりに面白い。売れない役者の桜井はコンドウを裏の人間だと察している一方で記憶喪失のコンドウは事態を把握していないという対称性と、どちらの視点でも相手と状態を共有できない緊迫感がいい。入れ替わりによって裏社会に生きていたコンドウが本来の自分を取り戻し生活が好転していく様も見ていて気分がいい。ただよかったのは入れ替わり生活を堪能していた中盤までで、それ以降は監督が別人と入れ替わったのかと思うほど退屈だった。後半はコンドウになりかわった桜井が発端となって起きたヤクザとのいざこざを、桜井と記憶を取り戻したコンドウが協力して解決する流れになるのだが、登場人物が増えて事件が複雑化しているのとそれによって展開が雑になり粗が目立つようになる。また最終的な落としどころもよくよく考えると腑に落ちない部分がある。コンドウは裏稼業から足を洗い雑誌編集長の広末涼子とくっつき、広末涼子も好きな相手と婚活を終えることができた一方、桜井は(一応役者の才能があることが分かったというフォロワーはあるが)売れない役者生活は変わらず階下の見るからに精神疾患の女と雑にくっついて終わる。確かに桜井は頭も悪く小心者で入れ替わりを良いことに人の金を使う小悪党だが、根はいい奴的描写も多かったのでもう少し救いがあってもいい気がする。まあオチについては個人的な好みで評価を下げていることは自覚しているが、ラストで彼らは恋に落ちるときに使われる車のアラート音はマジでチープで冷めた。邦画のよくない部分の象徴ですらある。特に今後の引用可能性もなさそうで来週には忘れてそうではあるが、堺雅人と香川照之の演技はよかった(小並感)。


パラサイト

★★★★☆

これはかなりよかった。まず序盤の貧困層の描写がかなりいい。給料日でまとまった金が入ったら豪遊してしまうところや豪遊の中身がポテチや惣菜といった体に悪そうな物であるところ、整理整頓が全くできず部屋が物で溢れているところなどかなりリアリティがある。唯一の救いは主人公一家の家族仲がいいところで、実際だとそれなりの割合で過程が崩壊している。彼らは半地下の生活に満足こそしていないものの大きな不満もないため、金を得るために必死に努力したり逆に犯罪に手を染めるようなアクションは起こさない。パラサイト生活を始めたのもほんの出来心で、ちょっと生活を豊かにしたいと思っただけだ。彼らの考え方からすると寄生という本作の選択は秀逸である。寄生は寄生元の栄養分(金)を吸い取るだけで寄生元より裕福になることはない。努力や犯罪と比べローリターンであるがローリスクなのが寄生という選択であり、出来すぎた夢は見ないがそこそこ楽しく暮らしたいというコスパの良い理想像に彼らの本性が垣間見える。

ただ中盤以降、地下から這い出る本物の闇深底辺夫婦が登場したことで彼らの寄生生活は崩れ去る。寄生して外側だけ裕福になっても思想や生活様式といった彼らの内側は貧民のままであり、一家は底辺夫婦と大差ないことを体臭を通じて寄生元の富豪に看破される。貧困層の成り上がれなさの象徴、固定化された社会階層の象徴が偽れない体臭であり、一見穏和な富豪が見せた明確な差別意識に一家の父親は狂ってしまう。それをきっかけに長男が成り上がりを決意して本作は幕を閉じる。一家は全員貧困層で居住区も似たような層の集落だったので絶対的に貧しくても相対的な貧しさはなく楽しく過ごせたが、寄生を通じて自身の境遇を客観視させられたことで結局は金銭的な豊かさというひとつの軸に囚われてしまう。寄生という選択肢は巧みな抜け道だったのに、それすら資本主義に絡め取られてしまうやるせなさを描いた秀作。


リメンバー・ミー

★★★☆☆

さすがのディズニーピクサークオリティで導入と世界観のクオリティは文句無しで良い。よくあるディズニー的リベラル系かと思ったら意外な方向に話が進んで驚いた。主人公ミゲルはミュージシャンになることを夢見る少年であるが、家族の意向で音楽の道へ進むことを反対されている。ミゲルは死者の国で祖先と邂逅し、自分は家族から愛されていたと知ることで最終的に夢より家族を優先する選択をとる。これはリベラルな従来のディズニー作品とは真逆の保守的な結末である。ディズニー作品といえばリベラルと言っていいほどこの二つは密接な関係にある。『美女と野獣』では外見より内面を愛すべきという教訓、『アラジン』では盗賊や姫という地位や身分ではなくその人の内面を見るべきという『美女と野獣』のオルタナティブ、『トイ・ストーリー』ではオモチャという先天的に与えられた役割を破棄して自立した人間として生きること…いずれにしてもアプリオリに与えられた構造を破壊して、アポステリオリに獲得した能力を評価すべきという価値観は一貫していた。一方『リメンバー・ミー』はミュージシャンの夢という後天的に獲得した夢ではなく、家族という先天的に与えられた役割を重視する。釈明しておくが、別に家族を愛することが悪いと言っているわけではない。何にでもあてはまることだが、完璧に良い価値観/悪い価値観というのは存在しない。特定の価値観や思想は必然的に両義的なものである。作中で言及されていたように夢を追いかけることは家族を放置して家庭内の不和に繋がるし、逆に家族を愛することは夢の実現を妨げることもある。だから何か特定の価値観を称揚してもいいが、逆の価値観のフォローや称揚された価値観の負の側面もしっかり言及していてほしい。本作はそれが不十分に感じたのため、いまいち高評価を押せない理由になっている。

ミゲルが憧れ自身の先祖であると思っている世界的ミュージシャンデラクルスは、ミゲルの夢の象徴であると同時に自由に生きたため家族を壊す存在でもある。その後、終盤で実はデラクルスは悪人であり、彼の相方で気のいいへクターこそが本当のミゲルの祖先であることが発覚するのだが、その辺りの展開が結構怪しい。ミゲルの夢を阻害していたのは他でもないミゲルの家族であるにも関わらず、全ての責任をデラクルスに押し付け、強引に家族愛の話に変換して有耶無耶にするのが好きになれない。確かにへクターは死ぬ間際に家族のもとに帰ろうとしたが、それまで家族をおざなりにしていたのはデラクルスと変わらないし、へクターは家族を愛していたのが分かったからという理由でミゲルが夢より家族を優先するようになる過程も無理矢理感がある。家族愛の大切さは描写されていたが、デラクルスやへクターに象徴されように夢を追いかけることは否定されるばかりで不自然な比較になっているのが惜しい作品。


映画マラソンを終えて

俺は普段はアニメや漫画といったジャパニーズオタクコンテンツばかりみていた人間なのでどの映画もそれなりに新鮮だった。俺はアニメや漫画の感想を書く際、ストーリー全体を通したテーマ性から考えることが多い。そういう点でいくと他の媒体と比べテーマの描写で優れている映画というメディアは俺に合っている。テーマの描写について掘り下げて語ると、『NARUTO』で例えるなら「平和を実現するにはどうすればいいか」「憎しみの再生産をどう回避するか」という大テーマがあり、そのための問題提起と回答がサスケとの和解に至る流れとなる。ただ漫画というメディアはそれなりに巻数が長く、いくつもの小テーマ、各キャラクターの背景や成長、恋愛などが枝葉として派生している。いい漫画やアニメは大テーマを本筋として進めつつ小テーマを定期的に挟んで物語を進行させていくが、尺の制限がないためやろうと思えば無限に中弛みしてしまう。その点映画は2時間程度と尺の制限があるため、作品とテーマを統制させることが容易であるという点で優れている。映画は尺の有限性ゆえにキャラクターやシナリオ、テーマ、演出や音楽といった各種要素を取捨選択し効率的に描写する必要があり、芸術作品として評価されているのだろう。

また、たった30本程度だがこれだけ見るとさすがに自分が好きなジャンルとそうでないジャンルが見えてくる。どうやら俺は日常系やコメディ、人情ものが好きな一方ミステリーやサスペンスは得意ではないらしい。それは多分俺が映画に何を求めているかに関わっている。『プレステージ』のところで軽く触れたが俺は映画に限らず好きな作品は繰り返し見たいタイプなので、ミステリーやホラーといった初見の体験に特化したジャンルとは相性が悪いのだ。ミステリーの肝はどんなトリックを使っているかという点にあるし、ホラーのそれは恐怖がどこからやってくるのが分からない点にある。こういった「分からなさ」は、それが「分かる」瞬間に力点があるので繰り返し見ることに向いていない。また『オーシャンズ11』のようなアクション映画はジャンルとしては好き寄りだが、何の教訓や教養もないポップコーンムービーとして作られていることが往々にしてあるため加点要素はない。なるべくジャンルでの俺の好みは排除して評価したつもりではあるが、映画自体の面白さの他に何かしらの教養が得られるものや、繰り返し見ることで魅力を再発見できる作品は俺的に高評価となっている。

ジャンルでの好みを度外視してフラットな目で見ても、ディズニー作品は全体的にかなり面白かった。ディズニーというと子供向けという印象があったが、冷静に考えて子供が面白いと思うものは大人も楽しめるのでクオリティが高いに決まっている。ディズニー作品は共通して「容姿や地位といった外付けの魅力ではなく本当の自分に価値がある」というリベラル思考が根底にあるが、それが嫌みっぽくなく作品ごとに微妙に味付けを変えて組み込まれており、なおかつ友情や恋愛といった他要素と作品ごとのオリジナリティを混ぜながら、長いとはいえない尺の中でまとめている。ディズニーはさすがに万人にオススメできると思う。ちなみに題材となっているリベラル思想は『美女と野獣』では容姿ではなく内面を愛しなさいという思想、『アラジン』は『美女と野獣』における容姿を、王族と盗賊のような社会的地位に替えたもの、『トイ・ストーリー』は作られた目的といったレゾンデートルに支配されのではなく、あなた自身に価値があるという思想だ。これらは普遍的なテーマとして他のディズニー作品でも登場するだろう。見たことはないが『アナ雪』の「ありのままの自分でいいの」みたいな歌がディズニーの全てである。

それとマジでしょうもないのだが、俺は人の顔を覚えるのが苦手だから髪色や髪型で記号的にキャラクターを区別できるアニメにハマりやすかったという悲しい事実が判明した。青年男性や高齢女性といった属性でしか人物を区別できないので、『殺人の追憶』『プレステージ』といった同じカテゴリーの人物が複数活躍する映画を理解できなかった。『プレステージ』に至っては最後までどっちがアンジャーでどっちがボーデンか分からなかったのでトリックもクソもなかった。さすがに申し訳なかったのでスマホで登場人物紹介を見ながら再視聴したが、逐一一時停止してスマホとにらめっこしても二人の区別ができずシナリオが複雑なこともあって挫折した。「お前は根本的に人間に興味がない」と複数人から言われたことがあるがあれは事実だと思う。

とにかく、まだ浅瀬につま先が触れた程度しか映画のことを知れていないので、今後もオススメあったらどんどん教えてください。


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