軍曹殿の大アジア
祖父殿
私は今『ビルマの竪琴』を読みながら、あなたのことを思っています。ドイツ文学者の竹山道雄が書いたこの唯一の小説は、昭和21年夏から23年まで童話雑誌「赤とんぼ」に連載されました。いつ戦闘がはじまるか分からないビルマの地でよく歌をうたう隊で伴奏をした、竪琴の名人、水島上等兵が主人公。停戦後、水島は山に立てこもっている日本兵の説得に行き、そのまま戻りませんでした。そのいきさつと心情を「隊長殿、戦友諸君」宛に綴った水島の手紙に肖り、祖父殿にお手紙を書くことにします。
日本に帰らなかった水島上等兵は戦地で何があったか手紙で伝えることができました。しかし、祖父、佐藤軍曹は帰国したにもかかわらず戦地でなにがあったか、ほとんど何も語らなかったからです。語ることができない体験だったのでしょう。でも私は知りたいのです。
私は子どものころあなたに「どこへ戦争に行ったの?」と尋ねたことがあります。あなたは「シナ」と一言だけ。シナがどこにあるのか、当時の私には分かりませんでした。竹山道雄の「ビルマの竪琴ができるまで」によると、物語の舞台は最初にはシナの奥地だったけれど、合唱による和解という筋立ては、場所がシナではうまくいかない。日本人とシナ人では共通の歌がないから。子どもの頃から歌っていて、自分の国の歌だと思っていたが実は外国の歌である「ほたるの光」や「はにゅうの宿」でなくてならない。とすると相手はイギリス兵、場所はビルマのほかにはないという事情から舞台が決まったそうです。
日本と共通の歌がないシナに行ったあなたのことが知りたくて、「陸軍兵籍」を取り寄せました。あなたは日中戦争が始まった翌年に臨時召集され、南京に渡り、太平洋戦争が始まった翌年に帰還して、召集解除となっていました。現地では宣撫班勤務。宣撫工作の任務は、現地民の人心を安定させるため、占領の目的を伝えること。その方法は映画や演劇の上映なども。あなたが銃弾を受けて帰ってきたことからも、「思想教育」はうまくいっていなかったのでしょう。
占領地における宣撫目的、国内では戦意発揚のための映画。映画をつくる人たちにとって、それは本意なのでしょうか。『ビルマの竪琴』は市川崑監督によって二度映画化されています。原作者の竹山道雄は、出征した教え子たちが激戦地で戦死した報を受け、戦没した人々の冥福を祈る気持ちで書いたと言います。映画は原作と違っていても、原作の意志を受けているはずです。
和田誠の『ぼくが映画ファンだった頃』に市川監督が語ってくれたこととして「どういうものが映画らしい映画なのか、真実というものを見事なウソで作り上げて見せる」とあります。
映画「ビルマの竪琴」の二作どちらにも、ビルマ人の物売り婆さん役で出演した北林谷栄。ビルマ人の感じが出ていて上手だと、ビルマ人が褒めていたそうです。北林のエッセイ『九十三齢春秋』には、彼女の役者魂が綴られており、「生活印象は俳優の武器庫だ」という言葉を格言としています。北林は農民を演じるために、日々田畑にいる人にお願いして、今着ている土の付いた服をもらったそうです。自分がそれを体験していないことを十分に知っているからだと言います。
竹山道雄はビルマに行ったことがなくても、ビルマの物語を書きました。市川監督の映画はビルマではなく、日本とタイで撮影したそうです。見事なウソを作ることができるのは、そこに表現しようとする真実、ビルマの赤い土にまみれた物売り婆さんの生活があるからなのですね。
シナでのことを語らなかったあなたは、戦後に故郷の地を開墾していたときのことを少しだけ話してくれました。耕した土の中から髪の毛が出てきたと、淡々と、その一言だけ。終戦の年に遭った大空襲の犠牲者でしょうか。
水島上等兵がビルマの地でみた死屍累々の白骨街道。物語では、あえて外地に留まって僧侶となり戦死者の霊を弔い続けた主人公がいました。
祖父殿、あなたが戦地で何を見たか推測することしかできませんが、語らずとも私たちに伝えてくれたことがあります。水島上等兵のように僧侶にはならなかったけれど、深く仏に帰依して亡き人々を供養し続けたことを私は知っています。その日々の生活で見せてくれたあなたの姿は、南京での体験を封印し、演じ続けた見事なウソであると言えるかもしれません。
あなたが背負ってきた真実、日本が抱えてきたアジアの負の歴史が隠されているからこそ、開けるための鍵を探したいのです。あなたの物語に伏せられたものがあるからこそ、私はその真実を引き受けたくなるのです。
(祖父の十七回忌によせて)