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江戸の漂流民、音吉。愛知県知多郡。グーグルマップをゆく #52

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策するグーグルマップをゆく。今回は愛知県知多郡。


千石船

 知多半島では江戸時代後期から明治時代にかけて、尾州廻船という荷物運搬用の大型船による伊勢湾から江戸、上方、瀬戸内海と本州の太平洋側を中心とする海運業が盛んであった。米千石分の積載量を有していたことから千石船と呼ばれた。

 天保3年(1833年)、山本音吉は、千石船・宝順丸にいつものように米や陶器を積み込み、江戸に向けて出航した。音吉を含めて乗組員は13人であった。途中、遠州灘で嵐に見舞われた。この時代の帆船は舵が大きく、暴風などに弱く、海が荒れると舵を失うことが多かった。また非常時には乗組員が帆柱を切り倒して船の安定を図った。そのため、嵐が収まっても運航することができず、漂流して港に帰れないこともあった。嵐の中、宝順丸も舵を失い、太平洋を一年以上漂流した。やがて、カナダに漂着する。食料は十分にあったものの、乗組員は病などにかかり、漂着時には乗組員は音吉とあと2名となっていた。

世界初の和訳聖書

 音吉たちは、アメリカ原住民のマカ族に助けられ、その後、イギリス船がやってきてロンドンに行くこととなる。この間に英語やキリスト教について学んだ。そして、マカオに送られることとなった。ここで音吉は、中国でキリスト教の布教活動を行なっていた・ドイツ人宣教師カール・ギュツラフ出会う。ギュツラフは、音吉たちと知り合ったことで、聖書の日本語訳に取りかかった。そして、音吉たちの協力のもと、1年を費やして「ヨハネ伝福音書」「ヨハネの手紙」の世界で初となる日本語訳を完成させた。

モリソン号

 マカオでの生活も数年が経った頃、日本で商売を考えていたアメリカ人上人によって、日本送還計画が出された。そして、天保8年(1837年)、日本人とアメリカ人を乗せたモリソン号は日本へと出航し、浦賀に到着した。しかし、この時期日本では、「長崎に来るオランダの定期貿易船以外のヨーロッパ船は理由を問わずに打ち払え」という「無二念打払い令」が出されており、いきなり大砲で砲撃された。浦賀を諦めて鹿児島に向かったが、鹿児島でも砲撃を受け、マカオに出戻った。

ジョン・M・オトソン

 帰国が叶わなかった音吉は、その後、ジョン・M・オトソンと名乗り、日本の漂流民の支援活動を行い、何人もの漂流民を救った。また、イギリス海軍の通訳も行い、上海に住んで貿易商として成功する。その後、シンガポールに移り住み、明治維新前に亡くなった。

漂流の民

 日本人でジョンといえば、ジョン・万次郎を思い浮かべる。音吉よりも少し後の人だが、太平洋を漂流して、アメリカに漂着した人である。当時、「ジョン」を名乗ることが流行ったのだろうか。今も昔も白人といえば「ジョン」が真っ先に思い浮かぶ日本人のセンスにおかしみを覚える。
 漂流の危険や海外の情報などは当時の日本人はよく知っていただろう。しかし、実際に長い時間海の上を漂流する辛さや実際に他国に流れ着いた時の恐怖などは、想像することができない。

 音吉や万次郎は、たまたま成功した稀な例でしかない。それ以上に多くの漂流民がいて、それ以前に漂流中に亡くなった人たちがたくさんいる。これ以上の想像をすることは難しいが、成功者の上に歴史があるのではなく、たくさんの無名の人々の上に歴史があるのだと痛感する。

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