一遍上人をたずねて⑪
一遍上人とは、どんな人物だったのか?こういったことをいくら考えても、本人の性格を読み取れるような史料は残されていない。
歌も残っているが、それからは真面目な人柄以外の人物像がなかなか浮かび上がってこない。もっと言ってしまえば、歌のような史料というのは、だいたい真面目な感じになっているし、自分を良く見せようとするツールなので、人物像に迫ることはできない。
私は、一遍聖絵に残されている踊り念仏の様子から、踊り念仏は幕末の「ええいじゃないか」のような陽気さを持っているのではないか?と考え、だとすれば、一遍上人という人は常に冗談を言って周りを和ませるような陽気な人物だったのではないかと推測している。
私は、彼の生い立ちから改めて考えることにした。彼は伊予の河野氏という海賊の出身である。河野氏は瀬戸内海を支配する有力海賊で、のちに村上水軍などを輩出するに至る。祖父・河野通信は、壇ノ浦の戦いで源氏につきいて活躍した人だが、承久の乱では朝廷側について没落してしまう。
一遍上人は、海賊の出身である。10歳から仏門に入ったと言われているが、当時の10歳ともなれば元服する年頃であり、それなり武士としての教育を受けて育っているはずである。
少し話が変わるが、一遍上人より少し前の武士、千葉胤綱について触れたい。この人は、下総(現在の千葉県北部)の豪族で、一遍上人の祖父・河野通信と同年代くらいの人である。
鎌倉中期の説話集「古今著聞集」の中にこの人が書かれているところがある。
ある年の正月に鎌倉御所に御家人が集まっていた際、上座で北条執権No.2である三浦義村が座って偉そうにしていると、胤綱が御家人をかきわけてやってきて、義村よりも上座に座った。
義村が「下総犬は、ふしどを知らぬぞよ」(下総犬は寝床を知らぬ)と言ったところ、「三浦犬は、友を食うなり」(三浦の犬は友達を食うからな)と返した。
義村は、和田合戦という鎌倉幕府の内戦において、友達を裏切って幕府のNo.2になった人で、そのことを皮肉ったのである。胤綱はこの時12歳であった。当時の武士全てがそうであったわけではない。しかし、豪族の御曹司ともなると、曲がったことを嫌い、誇りと度胸を兼ね備えていたという話である。
また話を変える。一遍上人の従兄弟に河野通有という人がいる。この人は、モンゴル襲来の際に河野氏を率いて活躍し、没落した河野氏を回復させ、河野氏の中興の祖と呼ばれている人である。一遍上人が出家しなければ、この人ではなく、一遍上人が河野氏を率いたかもしれない。武士どもを束ねるには、相当な気概が必要である。
千葉胤綱と河野通有などから、一遍上人も少なからず同じような気迫を持った人だったのではないかということである。性格にまでは言及できないが、少なくとも生涯を遊行で終えた精神は、まさしく武士の魂であり、その奥に優しさとユーモアを持った人であったと思っている。