弁慶謝罪の地。石川県能見市。グーグルマップをゆく⑦
グーグルマップ上を適当にタップし、ピンがたった町を空想歴史紀行をするグーグルマップをゆく。本日は石川県能見市。
能見市は、石川県の南部に位置する横に細長い形をした市である。日本海沿いに北陸自動車道があり、沿岸には風と砂を防ぐためのクロマツが植えられ、沿岸 には弁慶謝罪の地という場所がある。弁慶とは、源義経に仕えた武蔵坊弁慶のことである。
源頼朝による鎌倉幕府成立後、平氏討伐の立役者である源義経は兄·頼朝と対立し、朝敵としてその身を追われることとなる。 奥州へと逃げた義経一行は、 衣川の戦いにて壮絶な死闘を繰り広げて終わりを迎える。この時、義経を守るべく頼朝軍の前に立ち塞がり、一斉に放たれた弓矢を全身に受けて仁王立ちのまま絶命したのが弁慶で、その様を「弁慶の立ち往生」と言い表した。
義経一行は、京より奥州へと向かう。 その経路については北陸を通って奥州へ入ったと言われているが、実際のところはわからない。とは言え、日本海側には義経にまつわる言い伝えが多く、弁慶謝罪の地もその一つである。
一行が安宅の関を通る際、義経が関守に呼び止められ「義経に似ている」と疑われた。弁慶はすかさず「義経に似ているとは何事か」と持っていた杖で義経を叩きつけて疑いを晴らした。関守は義経だと気づいたが、弁慶の忠誠心による行いに感服して気付かぬふりをして関所を通し、関所を通過後、弁慶は義経に涙ながらに無礼を詫びた。という話である。これを題材にして、能の「安宅」という演目と、それを元に作られた歌舞伎の演目「勧進帳」が有名である。
さて、弁慶である。史実において「吾妻鏡」には「弁慶法師」と「武藏房弁慶」と名前が二度出てくるだけであり、人物などについては全くの不明である。室町期に書かれた「義経記」には出生などが詳しく書かれているが、創作と言われている。
法師とは仏法にの師という意味で、僧侶を指す。真言宗の僧侶に用いられるが、弁慶の時代にはただの僧侶という意味程度で、正式な僧侶としての資格を持たない私度僧を指した。「武蔵坊」の坊は僧侶の住む寺院のことであり、ここでは武蔵という寺院の弁慶という意味になるが、これは勝手につけたものであろう。
吾妻鏡が書かれた鎌倉期、法師を名乗る私度僧にはどこの馬の骨ともわからぬ荒くれものが多く、雑用係や僧兵、用心棒として寺に雇われるものも多かった。つまり、吾妻鏡に「弁慶法師」と書かれていることから荒くれ者の力強い僧兵だと推測され、忠誠心をテーマとして義経との対比によって人の心を掴む物語を創作し、弁慶の人物像も作り上げられたものと考えられる。
吾妻鏡にたったに2度記された名前から、本当にあった出来事のように現代にまで言い伝えられる物語の想像力は、ロマンを感じさせる
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