武田の狼煙。山梨県北杜市。グーグルマップをゆく㊼
グーグルマップを適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は友人にタップしてもらってピンが立った、山梨県北杜市。
永保3~寛治元年(1083年~1087年)に奥羽で起きた後三年の役。これを鎮静すべく陸奥守として源義家が派遣される。この争いに、京での官をを捨てて救援に向かったのが、義家の弟・源義光である。
義光は新羅三郎称した。この不思議な名前は朝鮮半島に何か由来するのかと思い調べると、新羅明神で元服したことによるものだった。兄の義家は、石清水八幡宮で元服したことで八幡太郎を称したので、兄を真似たものだろう。
ちなみに、義家と義光の間にもう一人男兄弟がおり、源義綱がおり、賀茂神社で元服したことにより、賀茂二朗と称した。仲の良い兄弟だったのだろう。この呼称の付け方は兄弟一代で終わり、後の子どもたちには受け継がれなかった。
後三年の役の活躍により、京に戻った新羅三郎義光は、常陸介を任ぜられる。拠点となった常陸国那珂郡武田郷より武田を取って「武田冠者」を名乗ったが、新羅三郎義光の三男・義清である。義清はその後、揉め事を起こして甲斐国に配流となり、これが甲斐武田氏の始まりとなって、のちに武田信玄を輩出する。
居城としたのは若神子城である。新羅三郎が築城したとも言われているが、これについてはよくわからない。若神子城跡は、現在は公園となっており、ここにのろし台が復元されて設置されている。
時は下って、武田信玄であふ。信玄は狼煙による情報伝達のプロであった。この時代は武力よりも情報戦の時代であり、いかに早く情報を正確に伝達するかで勝敗が左右した。
個人的な見解ながら、信玄が狼煙をうまく扱えたのは、甲斐国という立地によるところが大きかったのではないか。甲斐国は内陸に位置し、東西南北全方から敵の攻撃を受ける可能性がある。例えば、越後国の上杉謙信は海を背にしていることで守りが固かった。
それに比べると甲斐国は裸同然である。常に周りの情報を得ていなければ、いつ攻められるかわからない。そして、非常時に何よりも早く情報伝達できたのが狼煙である。
狼煙は、古くから世界中で使用されてきた情報伝達の手段である。日本においては奈良時代から使用されていたと言われている。
狼煙を徹底的に駆使するしかないと信玄は思ったに違いない。当たり前のことながら、狼煙は煙が上がるため、狼煙を上げれば何かしらの情報が発信されたことは敵にバレる。しかし、敵にバレたとしても、それよりも早く情報を伝達すればよい。とにかく巧みに操った。その点において戦国一であっただろう。そして、若神子城を信玄は信濃攻略において重要視した。
しかしながら、時代の流れには逆らえず、武田家は滅亡の一途を辿るのである。