丹後王国。京都府京丹後市。グーグルマップをゆく #56
グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、京都府京丹後市。
日本海側に面するこの地域は、出雲と越国のちょうど中間あたりに位置し、若狭湾の一端を担うところである。大陸から見れば、出雲や越国と同様に映ったに違いない。
昭和58年(1983年)、歴史学者の門脇禎二が発表した「丹後王国論」によると、ヤマト政権以前の4世紀中頃〜5世紀にかけて京 丹後市の峰山盆地を中心に独立国家が存在したらしい。
吉備国に並ぶほどの国家であり、ヤマト政権の出雲征伐後にヤマト政権傘下に入ったと見られている。古事記や日本書紀に丹後に関する記述も多く、この地には古墳も多い。
その後、ヤマト政権に降った後も、8世紀から10世紀にかけての200年間に中国北東部にあった渤海国から34回も使者が来ていたという記録や、平城京からも丹後国の名前が刻まれ木簡が出土している。つまり、この地域は古代より大陸と中央との交流が盛んだったことを示している。
日本海側の地域は、九州、中国地方、北陸東北も含めて、どの地域も大陸との交流が盛んであった。丹後国だけが誰も住まず交流がないと考える方が不自然である。
ヤマト政権をはじめ、九州や出雲、吉備など、国家があったことは言われているが、そもそも魏志倭人伝には日本に多くの国があったと書かれているわけで、丹後王国があっても何ら不思議ではない。
ただ、私の個人的見解としては、「国家」という名前によて偏ったイメージを植え付けられているのではないかと思うのである。現在私たちが属するような国家規模ではなく。大きくとも市や府県ほどの大きさだったのではないか?ということである。
政治的な機能だけで見るならば、町の自治体くらいのものではなかったのだろうか。出雲征伐を考えるヤマト政権からすれば、海側を出雲に抑えられてしまえば勝ち目がない。当然、北陸に続いて抑えておかねばならない地域であったはずである。