日本最初の商業手形。奈良県吉野郡。グーグルマップをゆく㊻
グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は奈良県吉野郡。
吉野郡は奈良県の半分くらいを占める。もはや吉野県と称した方が良さそうであるが、そういうわけにもいかないのであろう。奈良も吉野も呼称が古いので、どちらも甲乙つけずに扱いたいという気持ちの表れだろうか。
吉野郡の北西部に下市町というところがあり、日本最古の商業手形である「下市札」が発行されたことで知られる。平安期、貴族や寺社が荘園のために木材などの資源を欲しがった。木材は、建築のみならず火を使うのにも使用されるため、生活するためには必要不可欠であり、吉野地方は豊富な資源に恵まれたところであった。下市は吉野地域の入り口に位置するため、人が集まり「市」が形成された。
人が集まって商売が盛んになると経済が活性化する。金銭のやりとりが行われるが、当時はまだ銅銭などの硬貨が主流であり、大金が動くとなるととんでもない量の銅銭を持ち込まねばならず、そうなると危険が増える。そこで考案されたのが手形である。
偽札の心配はなかったかと思うが、調べ切ることができなかったのでわからない。ただ、室町期に使用される為替手形などは巧妙にできており、偽造しにくかったようなので、元々は下市札を真似たものなのかもしれない。
奈良の吉野地方や滋賀、三重は木材がよく取れた。朝廷などに使用される木材はこの辺りのものと決まっていたのではなかったか。中央政権が奈良から始まったことと遠い地方から運ぶのは効率が悪いということもあったかもしれない。とにかく、平安期には商業地とした栄えた。
余談ながら、室町期に淀川流域が経済の中心となった時、為替手形が使用されるようになり、税金も為替が主流となった。税金は今で言うところの何億という金額が納められていたわけだが、仮にこれを銅銭と重さと大きさがよく似ている100円で換算して考えてみると、100円を1億円分の枚数にすると100万枚となる。100円は1枚4.8グラムで、100万枚だと4.8トンもの重さになる。
これだけの量と重さを荷車に乗せて運ぶと考えると、荷車の数と人の手、さらには盗賊などに襲われる危険などがあり、どれだけ大変なことかは想像に難しくない。
平安期にいよいよ、国として国家が形成されていく中で、経済も著しく回り始める同時に、今と同じく金融経済についても様々なことが考えられ、今にもつながっていると思うと非常に面白い限りである。