日本屈指の百貨店の始まり。滋賀県高島市。グーグルマップをゆく #72
グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は滋賀県高島市。
飯田儀兵衛は江戸の後期、現在の高島市今津町を出て京都は烏丸松原で米穀商「高島屋」を営んでいた。屋号は、自らの名前ではなく出身地の高島から取った。
米穀商を営む前は、京都のどこかの商家で丁稚奉公をしていたに違いが、詳細はわからない。江戸の後期に店を開くとなると、京都の中では新入りである。自らの名前を屋号にするなど、周りから何を言われるかわからず、商売に悪影響が出たのだろう。もしくは、当時の習慣か暗黙の了解だったのかもしれない。
ちなみに京都では、江戸後期に住み始めた人ぐらいでは、この令和においても「新入りさん」と呼ばれる。100年や200年など、京都の歴史に比べたらまだ短いという皮肉である。
とは言え、高島から出てきて一代で自らの店を持つまでになった人である。人の何倍も働いた。しかし、後継には恵まれず、秀という一人娘だけであった。
「なんとか働き者の婿養子を迎えたい」と常々儀兵衛は考えていた。自分の店に立派な若者でもいてくれれば話は早かったが、なかなかそうもいかなかった。
三条大橋東入ルにある角田呉服店によく働く若者がいると聞きつけ、特に用事もないが行ってみた。きびきびとよく働く奉公人が1人目に入った。主人に名を尋ねると「新七」と言った。
何度か角田呉服店に行き、店の前から新七の働きぶりを見た。儀兵衛はいよいよ新七に惚れ込み、人づてに角田呉服店の主人に縁談の話を持ち込んだ。角田呉服店の主人も新七を手放すのはと渋ったが、せっかくの話だと折れて本人に話してくれた。
しかし、数日後、本人が断ったと返事が来た。理由を聞くと、いずれ自分の呉服店を持って商売をしたいというのだ。正直、これまで娘に縁談の話をいくつもあったが断ってきた。高島屋との縁談ならばそうそう悪くない話とは思ったが、本人の意思が固いのであれば仕方がない。だが、そういう志が高いところも気に入ってしまった。
その後、何度か縁談の話を申し入れたが、新七の気持ちは固く、諦めた。そうこうしているうちに、角田呉服店が店を閉めると耳に入ってきた。商売が行き詰まったらしい。これは最後のチャンスかもしれないと、新七に縁談を申し入れた。
新七も、さすがに店がなくなってしまってはまだ独立が難しかったのだろう。とうとう縁談を受けた。儀兵衛は婿に来てくれることを喜んだ。そして、新七に米穀商を継がずにいずれは呉服屋をしてもよいと言った。
その後、新七の働きぶりは思った以上で、一年も経たないうちに店の隣に古着と木綿商を営む「高島屋」を開業した。看板には、丸に髙の字をつけた。新七は事業を拡大させ、誰もが知る「百貨店の高島屋」として今も続いている。
飯田新七の商才もさることながら、飯田儀兵衛の人を見る目がなければ、今日の高島屋はなかったかもしれない。もしくは、違う名前の百貨店が存在したのだろうか。ともかく、人生とはそんなものかもしれない。