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不思議な群名を持つ国府。広島県府中市。グーグルマップをゆく #63

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は広島県府中市。

 全国に府中という地名は多く、国府が置かれていたところを府中といった名残である。広島県の府中市も備後国の府中が置かれた場所であった。

 平安期に書かれた和名類聚抄によると、「吉備後国」と書いて、「きびのみちのしりのくに」と呼んだらしい。

 吉備国は古代、出雲に次いで勢力の大きな国であり、ヤマト政権はこれおを味方につけて出雲征伐に出る。出雲制圧後、吉備を三分割し、「備前」「備中」「備後」とした。

 備後は国府が置かれていた当時、恵蘇(えそ)群、奴可(ぬか)群、三次群、三上群、三谷群、甲奴郡、神石郡、世羅群、芦田群、御調(みつぎ)群、品治(ほんじ)群、安那群、深津群、沼隈郡の14の郡に分かれていた。

 なんだか、非常に変わった地名が多いように感じる。不思議に思ったので、備中についても調べたところ、都宇郡、窪屋郡、賀陽郡、下道郡、浅口郡、小田郡、後月郡、川上郡、上房郡、哲多郡、阿賀郡の11群に分かれていたが、別段変わったという印象は受けない。

 備中とは反対側の安芸国についても調べた。豊田郡、賀茂郡、安芸郡、沼田郡、高宮郡、高田郡、山県郡、佐伯郡の8群に分かれており、これも特に変わっているという印象は受けない。

こうして並べてみると、改めて備後国の群名が非常に不思議な感じがする。備中国や安芸国と違って出雲の真下にあるため、出雲の影響が強いのかと思ったが、どうやそうではないらしい。

 7世紀の後半ごろから、地方豪族たちは古墳の代わりに寺院を建てて権力を誇示したらしく。白村江の戦いのあとに百済から僧を招いて建立したという記録も残っている。つまり、出雲の影響ではなく、朝鮮半島の影響と見るのが正しいようである。

 そう言われると、「羅」や「那」という文字が使われており、朝鮮半島を彷彿とさせる。備中や安芸にも朝鮮半島の僧は招かれていただろうが、備後が特大きな影響を受けたのかもしれない。

 とはいえ、その影響が何かまでは調べ切ることができなかった。

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