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一遍上人をたずねて⑫

 一遍上人は32歳から51歳まで遊行と呼ばれる行脚の旅に出ていたわけだが、そこで気になるのが費用についてである。これについては全くもってどうしていたかはわからない。しかし、時代は中世鎌倉期、僧と言うだけで各地で施しを受けていたのかも知れない。ただ、資金があったという可能性も捨て難い。

 徒然草の中に、しろうるりという、仁和寺真乗院の盛親僧都がある法師につけた渾名の話がある。この法師は、師匠が亡くなった際、現在の価値にして数千万の資産と住房を譲り受ける。

 これを「京なる人」に預けて、必要となればお金を「京なる人」から引き出して、芋頭を買って食べるという生活をしていた。そして、ついには全額芋頭に使ってしまったという話である。

 また、「古今著聞集」という説話集に、右大臣に仕えていた貧乏侍が、その時仕事仲間の間で流行していた博打をしたいがお金がなくてできない。それを妻に相談したところ、妻が衣服を売ってお金を用立て、その金で博打をしたところ、大儲けした。

 貧乏侍は、妻のおかげであると、妻に儲けたお金の三分の一ほどを渡し、自分は出家し、お金をある商家に行って預け、自分を住まわして食事を世話してほしいと頼んだ。また、もう一軒別の商家にも同じように頼みをして暮らした。そうして毎日念仏を唱えて暮らすうちに、近所の人々が彼を尊ぶようになり、帰依するものや身の回りの世話をしてくれるものも現れ、二軒の商家に預けていたお金が必要なくなり、最期は往生すると言う話がある。

 これらはどちらも中世鎌倉期の話である。当時の資産預金方法のヒントが隠されている。つまり、資産がある人間は、お金を他人に預けて必要な時に引き出すという銀行のようなシステムを利用していたということである。

 これらは土倉と呼ばれる金融業者で、京都においては酒屋がその役割を担うことが多かった。当時のお金は銅銭であり、持ち歩くには限度があった。なので、土倉に預けて手形や小切手で決済していた。

 一遍上人は河野氏の出身で、元々13歳の頃に太宰府の寺に預けられており、父の死とともに伊予に戻って還俗した。つまり、家督を引き継いだということである。32歳で出家する際、引き継いだものをどうしたかはわからない。

 ここからは、想像をお許し願いたい。

 一遍上人は、捨て聖と呼ばれ、乞食のような格好して遊行をしていた。最終的には全てを捨てたかも知れないが、はじめのうちは、ある程度資産を土倉に預け、必要に応じて使いを出してお金を引き出していたのではないだろうか。もちろん、終生そうだったわけではなく、「古今著聞集」に出てくる貧乏侍のようにある程度周りに尊ぶものが現れるまでの間である。

 一遍聖絵を見ていると、この費用はどうしたのだろう?と思う点が多く、邪推ながら、このような想像を膨らませてみた次第である。


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