妄想劇場へようこそ
数年前のことだ。友人の店にふらりと顔を
出したら、その場にいた数人で「タイ料理
でも食べに行こうか」と話がまとまった。
そういう流れ、嫌いじゃない。
トムヤムクンの酸っぱさで脳がリフレッシュするし、何よりビールが美味いから。
そんな期待を胸に夜道を歩いていると、
隣に歩いてきたのがNさんという女性。
初対面のはずなのに、いきなりやたら饒舌。「最近ね、彼ができたの〜」と、
話の出だしから恋バナの全開アクセル。
いやいや、普通こういう話はタイ料理店に
着いてからの酒が入ったタイミングでしょ? しかし、Nさんにはそんな遠慮は一切ない。彼がいかに優しいか、気遣いがあるか、
一緒に映画を観た後は感想を語り合うんだ
とか、卵焼きは出汁が入ってる方がいい
入ってない方がいいで喧嘩をするとか。
次々と繰り出される
「幸せな私」エピソード。
恋愛偏差値3(自己申告)の私にとって、
これはもはや呪詛だ。心の中で何度舌打ち
したかわからない。だが、顔には絶対に
出さない。プロ人見知りとして、
「へぇ〜、いいね〜」「優しい彼で羨ま
しい〜」と薄っぺらい防御の愛想笑いを
全力で展開する。
タイ料理店に着いて食事が始まると、Nさんの先程までの彼氏自慢はピタリと止まる。
私は何らかの違和感を持ったが、それが
何なのかわからなかった。
その夜はなんとかやり過ごしたが、問題は
数日後。再び友人の店を訪れたときの
ことだ。ふとNさんの話題になり、友人が「この間一緒にいたNちゃん、どうだった?」と聞いてきたので、社交辞令全開で
「なんか幸せそうでいいよね〜」と返した。すると、友人が一瞬眉をひそめ、驚愕の一言を口にした。
「あれね、全部妄想だから」。
……は? 妄想? 精一杯愛想笑いして相槌を
打ったタイ料理店への道中。
Nさんのキラキラした瞳、楽しそうに彼の
優しさを語る声……
あれが全部妄想?
頭の中でエピソードが次々と再生される。「え、どういうこと?」と聞き返す私に、
友人は平然と言い放つ。
「あの人ね、職場で気になる人がいるのね。
でも、付き合ってはないんだよね。
テレパシーで会話してるんだって」。
……テレパシー? え、ちょっと待って。
何そのジャンル? ロマンチックコメディの
はずが、急に超能力SFにジャンルチェンジ
したんですけど。友人はさらに追い討ちを
かける。
「全部Nちゃんの脳内劇場なんだよ」。
私の中で何かが弾けた。いや、なんなら
ちょっと怒りすら湧いてくる。
あの夜、私が一生懸命装備した愛想笑いと
相槌を返してほしい。薄っぺらい防具で受け流していたつもりが、実は完全に彼女の妄想のターゲットにされていたという事実。
騙されたというより、踊らされた。
しかも、脳内劇場という虚構の舞台で。
ここで終わらないのが私の業の深いところ。
「どんな妄想をしてるんだ?」という興味が湧いてしまった。そして、Nさんのブログに手を出してしまう。開いた瞬間、画面越しに鳥肌が立つ。そこには、まるで実際に彼氏と付き合っているかのような文章が数か月分
びっしり。
卵焼きの喧嘩の朝も、映画の感想も。
全部「彼」との時間として綴られている。
もちろん、すべて脳内限定。
怒りがじわじわと込み上げてくる。
私は一体何に巻き込まれたのだ?
なぜ私が妄想に愛想笑いを振りまかなければならなかったのか?
キェーー!!と天人唐草の主人公のように
叫びたくなったよ。
その後もNさんは友人の店に現れ、脳内彼氏の話を続けたらしい。あまりにもしつこい
ので友人が、「Nちゃんさ、それって本当に
付き合ってるの?」と聞いたら、彼女は
しょんぼりした声で答えたそうだ。
「私の片思いです」。
片思い……?
片思いってのはもっと地に足のついた、
リアルな感情を指す言葉じゃないのか?
Nさんの場合、それはもはや「片思い」の
枠を超え、「一人で完結する幻想世界」と
化している。私はあの夜、Nさんの脳内劇場のチケットを強制的に押し付けられ、さらに
舞台の上に引っ張り上げられたマヌケな観客だったのだ。
恋愛は自由。それは認める。
でも自己満足のために人を巻き込むのは
止めてほしい。
その後もNさんは主演・脚本・演出を兼ねた妄想劇場を続けている。主演男優は都度、
変わっていっている様だけど。
私はもう、二度とそのチケットを受け取らないと固く誓った。
が、ブログと云う名の配信公演は、定期的に
観に行っている。
業が深くて嫌になるね(笑)