キリストの聖体に関する覚書
キリストの血と体はパンとぶどう酒の付帯性(=偶有性、外観)はそのままで、聖体の秘跡が執行される時、それらの本質が変化すると言われる(実体変化説)。
しかしながら、ラニエロ・カンタラメッサによれば、司祭によって聖変化が起きるわけではなく無論、司祭だからといっても奇跡の根源なのではない。
聖変化の根源は「神の言葉と聖霊」によるものである(#note Eucharist〈4〉参照)。
だからアリストテレスの哲学的なパンとぶどう酒の外観/付帯性の区別自体は、言語学的なシニフィアン/シニフィエの脆い結び目のように恣意的なものである。
プロテスタント諸教派による改革によって、聖餐論が付帯性の千差万別な理解に陥ってしまった。
理由としては、当時のカトリック教会が本質と実体の〈起源〉である「神の言葉と聖霊」よりも「聖体とその拝領」という〈結果〉を生じさせる〈過程〉にすぎない聖変化自体に集中したからであろう。
キリストの制定句である「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」が聖霊によって、聖とされた私たちの本質・実体を変化させる、そのような起源と結果が大切である。
だから東方の正教会では聖変化以上に、神のエネルゲイアに基づく聖体領聖を通じて、私たちのキリスト教的生き方に力が与えられると考える
正教会によれば、私たちは神の〈本質〉に触れることはできないが、神の〈働き〉に与ることはできる。
この〈働き〉をエネルゲイアと呼ぶ。
カトリック教会は静態的で、──動態的な正教会と違って、パンとぶどう酒の〈付帯性〉(=外観)に対しての〈本質〉(=実体)に力点を置いている。
そうなると、キリストの血と体は生物学的なものに変化するのか、しないのか?という疑問が残る。
生物学の対象としての体だったり、マリアを通じてキリストが受肉した体は罪のない体だったからこそ、神に対して唯一の贖罪の犠牲であった。
キリストが地上におられた時の体は埋葬され、陰府に下降したが、神はキリストを死者の中から復活させて、聖霊の体を与えて初穂としてくださったのである。
キリストの体がどのように聖霊の体に変化したのか?と問う者は使徒パウロによって次のように注意されるに違いない。
聖体拝領におけるキリストの血と体の変化の〈過程〉はさておき、キリストの血と体は復活のキリストの、聖霊による体であって、私たちは聖霊による聖体(血と体の本質)を拝領するのである。
キリストの血と体を生物学の対象としての血と体だと勘違いしていないだろうか?
仮に万一、聖体拝領の時、パンとぶどう酒における実体変化が、キリストの受肉した体と血、即ち、使徒信条の言葉を借りるならば「十字架につけられて死に」「葬られた」ものならば、カニバリズムと何ら異なることがないであろう。
キリストの受肉した体は既に十字架で捧げられたことを思い起こそう。
キリストの聖体は神の言葉によって正しく執行されるが、神の言葉にリベラリズム的な私的解釈を施すならば、何が聖変化なのか。
どうしてキリストの復活の体に、聖霊による栄光の体に与ることができようか。
聖体拝領においてキリストの聖体は聖霊によるキリストの血と体であって、司祭が「パンとぶどう酒が生物学の対象としての聖体に変化する」と考えているならば、私たちに配られるホスティアは存在しない。
キリストが十字架につけられた時、神が備えた体は槍で突かれて血が流れ出し葬られてしまったからだ。
実体変化説を旗印としながら、神の言葉をリベラリズムで私的解釈して斥けて教会の伝統を無視して、キリストの聖体について教えられず、神学的にも霊的体験的にも、思考停止と鵜呑みの自称キリスト者が爆誕するであろう。
キリストの真実を徹底的に探究するための、使徒トマス的な懐疑主義は不可欠である。
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