幼少期、私は曹洞宗の幼稚園で園児生活を送っていたが、仏教童謡とか、禅が導入された特殊な環境で育った。他方、兄弟たちはキリスト教(カトリック)の保育園で育ったせいか、結婚式はカトリックでもないのに全員、キリスト教式(プロテスタント)で挙式していた。
さて、仏教系の幼稚園は、弘法大師(空海)による禅の影響があったため、仏像は存在しなかった。しかし、祖父母の家が真言宗の檀家として本家だったので毎日、仏壇に手を合わせるように教えられる日々であった。その時、私が祈り心の中に感じていたものは「無」という言葉でしか表現できない。そこから自分自身の「無-価値」が生じることになる。
だから結局、高校時代に自発的に聖書を読もうとしたが教師がいなかったので挫折して、大学時代の聖書研究会と教会の礼拝への出席と、キリスト教の教理教育を通じて洗礼を受けることになる。即ち、地元では諸教会があって救いを求めていたにも関わらず、福音を伝えてくれる方々が不在だったため、キリスト教徒になることはできなかったのである。
時は経過して、キリストを信じて洗礼を受けた私は即座に、神に献身したいと本気で祈り願った。紆余曲折はあったが、神学校を卒業した後、独立伝道者として教会開拓を開始することになったが詳細は省こう。説教と司牧の現場において、福音宣教の困難の中、徐々に私は信仰の限界に至ってしまった。何度も燃え尽き症候群になり、倒れて、極貧生活なのに無償奉仕どころか、相手の方々に信仰の学びに不可欠なテキストだとか、信仰告白者に洗礼を授ける際の移動費・交通費・滞在費・食費などを自分自身で負担していた。理由は簡単で、私が過去に所属していた教会では一般的に「什一献金」と呼ばれる費用負担が存在しており、献金を捧げる時の封筒があるのだが、どうしても献金できなかった時、口頭で注意されたり、教会の経理・会計部門から封筒に「未納」と押印(=不信仰の烙印)されていたことで、非常に心が痛む教会生活だったからだ。今となっては言うのも恥ずかしいが洗礼時、誰からもプレゼントはなく、現在に至っては当時の写真も保管されず、教会籍も抹消され、何と受洗日さえも記憶している関係者の方々もいない。故に、竪琴音色キリスト教会では献金なし、無償奉仕、キリストを伝えること自体が報酬であると考えて福音宣教をさせてもらっている。
さて、福音宣教において信仰の限界を突破させたものは、私にとって何だったのか。上智大学神学部主催の神学集中講座を受講するよう、カトリックの友人から誘われたことが転機となったと思う。霊性神学だとか、マリア論など、カトリシズムを十分に学べる講義を5年間以上、学び続けて、毎週土曜日夜からのミサにも継続的にあずかり、司祭から祝福してもらった。
入門講座にも導かれたが、何年も通っていた聖イグナチオ教会が遠すぎたため、途中で通える範囲の教会で堅信を受けることになったが、信仰の遍歴に関してはこの辺りでやめておこう。
プロテスタントからカトリックに移った時の、最大の衝撃は、十字架にイエス像が磔にされていたことだとか、祈る時に小さな磔刑像やマリア像を置き、キリストの現存を大切にすることだとか、十字を切るなどの所作だとか、──要するに、聖画像と聖像に対する崇敬であった。神学的に了解していても、例えば、マリア崇敬と諸聖人崇敬の実践としての「ロザリオの祈り」を唱えるのに5年間も躊躇していたと言えば理解してもらえるだろうか。ましてや、マリア像に向かって挨拶の祈りをするために連れて行かれたこともあったが、聖遺物に対する態度も含めて、カトリック教会の風土に慣れるのに「自分の中の抵抗感」と戦うこともあった。現在は普通にロザリオの祈りを唱えて、様々な信心の祈りにも関心があり、聖画像と聖像に対しては崇敬の念を深くして、自室の中では祭壇を整えている程度に、何の問題もなくなっている。
カトリシズムがプロテスタンティズムを包括し、それまでの信仰の限界に突破を与えてくれたことを神に感謝しても感謝し尽くすことはできないくらい喜びに溢れている。同時に何故、一見、聖画像と聖像への崇敬は聖書主義からすると対立するように思えるのに、今は何の違和感も存在しないのか、きちんと言語化すべきだと思った次第である。
これまで伝道してきて、何らかのカトリック的な影響を受けていた方々と出会ったことも頻繁にあった。修道会が運営していた保育園とか、ミッション・スクールを卒業していたり、幼児洗礼を受けて洗礼名を持っている方々もおられた。堅信は受けておらず、ミサにも参加していないため、伝道対象だったからである。
聖画像と聖像に対する崇敬の前に、言うまでもなく、キリストの十字架の死を告げ知らせ、福音を伝えるわけだが、キリスト者の霊的成熟のために聖書通読、霊的読書、ロザリオの祈り、教会の祈り等を推奨している。何よりも、自分自身がそれらの恩恵がなければ倒れてしまう。
さて本題に入るが、プロテスタンティズムにおける聖画像と聖像への抵抗感は一体、どこから生じているのだろうか。この問題は紀元8-9世紀に渡る「聖画像破壊論争」に私たちを導くが、M.D.ノウルズは『キリスト教史 ⑶ 中世キリスト教史の成立』の中で、正しく「宗教的芸術に対する敵意の伝統」として、次のように書いている。
何よりも、像に対する旧約聖書の禁止令が引き出される。
テオドロスによれば、この聖句を根拠にして「肖像を飾った建物は例外なく禁止されている」という。
ところが、宗教改革者のジャン・カルヴァンは、第2回ニカイア公会議(787年、第七全地公会議)に対して「礼拝堂の中に像を置くことだけでなく、これを礼拝することまで命じた」として「像を用いることに固執する者たちは、このニカイア会議をたてにとって論じる」としている。
カルヴァンの聖画像と聖像に対する攻撃は苛烈を極めているが、ただの激情に駆られているのでなく、彼には彼なりの、西方教会の理屈が存在する。何故なら「キリスト教綱要」において、第2回ニカイア公会議に「カロリング文書」(Libri Carolini)という、同時代の批判書を対置させているからだ。
「カロリング文書」は、フランク王国カロリング朝時代に、教皇レオ三世から西ローマ帝国皇帝として帝冠されたカール大帝が召集したフランクフルト教会会議(794年)が第2回ニカイア公会議の聖画像に対する崇敬と、神に対する礼拝を区別した解釈を異端として排斥しているというものだ。
「カロリング文書」によれば、第2回ニカイア公会議に東方教会から派遣されたダマスコの聖ヨアンネス(675頃-749年頃)が聖句を引用して、創世記からは像の保有を断定した。
雅歌からの引用では像を推奨するものになると考えた。
他の司教は祭壇の上に像が立てられねばならないことを論証するために以下の聖句を引いた。
別の司教は、像を眺めることが私たちの益になることを詩篇から引用した。
「カロリング文書」は加えて、「キリスト者は異邦人の偶像の代わりに、聖人たちの像を用いなければならない」という主張を記録しており、その裏付けとして聖句を根拠としたと報告している。
カルヴァンは更に皮肉を込めて「最も見事な解釈」を紹介する。
神は単に言葉を聴くことによって知られるだけでなく、その像を見ることによっても知られるという解釈である。
ストゥディオスのテオドロスは「光と闇とに何のつながりがあるだろうか」「キリストとベリアルにどんな調和があるのだろうか」という聖句を引用しながら「原因」について書いている。「なぜなら、結果は原因の勢力下にあるからである」。
テオドロスは視覚と聴覚の知覚的な同等性に関しても述べている。
しかし最後に、カルヴァンによって、テオドロスの聖句の引用は「才知」と言われてしまう。
またテオドロスは他の聖句も引用している。
そういうわけで、テオドロスはこれら二つの聖句は「聖像に関するもの」だと語ったのだが、神学的な方向性は適切でも、聖句の引用に関しては不適切だったかもしれない。だが、その神学的な方向性こそ、テオドロスの評価すべき点ではなかったか。
ところが、カルヴァンは、彼らの聖句の解釈があまりに「愚劣さ」に陥っているため、「わたしにとって不快でならない」とまで言い切る。
しかしながら、M.D.ノウルズによれば「聖画像破壊者の立場は最初は異教の偶像礼拝に対する恐怖」に負っていたと指摘した上で、コンスタンティヌス5世のキリスト論的理解により恐怖が強化されたと考える。
常識的に考えると、何らかの像を描写する時、原型の本質を模写することは不可能であるように、聖画像と聖像に模倣され再現化された描写は、自分自身の中の理念であって、神の本質でないのは自明である。
第2回ニカイア公会議では、神に対して捧げるのは「礼拝」(λατρεια、ラトゥリア)としているが、聖画像への「崇敬」は(ποροσκυνησις、プロスキニシス)として使い分けている。
キリストの受肉の教義も、ダマスコスの聖ヨアンネスによって聖画像擁護の理論的根拠とされた。
少し考えてみたいのだが、キリストの受肉において見えない神が見えるようにされたのである。
故に、聖画像と聖像に対する崇敬は正当化されるという論点だが、そうならば何故、キリストは使徒トマスに対して次のように言われたのだろうか。
キリストの受肉と復活は聖画像と聖像の議論において結合しないのだろうか。即ち、カトリックの十字架はキリストによる永遠の贖罪を示す磔刑像だが、プロテスタントの十字架は復活のキリストが聖霊において内住していることを示している、──そのような十字架像の対立は回避できないのだろうか。
キリストの受肉と死においては、神が御子を通して御自身を明らかにしたことの啓示を明示するため、キリストを贖罪の記念として磔刑像にするのである。
キリストの復活においては逆に、聖霊が強調されるため、十字架に磔にされっぱなしのキリスト像は除去されてしまう。
聖画像と聖像の範囲は十字架像、福音書(当時は聖書に挿絵が描かれていた)、賛美歌なども含まれていた。ジャン・カルヴァンのジュネーブの教会において楽器が禁止され使われず、礼拝において声だけで賛美されていた事実は極端過ぎるのではないか、──そのような感覚を持つ方々は聖画像と聖像も導入しても良いと考えていると検証するのも面白いかもしれない。
現代においては芸術に限らず、アクセサリーだとか、ファッションに至るまで普及している。化粧をせず、ネックレスも指輪も付けず、ウィッグとか、カラーリングも不要な方々もいるだろう。他方、業界によっては、それらのすべてが不可欠になる方々も存在する。
そのような世俗的な時代に聖画像と聖像は明らかにキリストに対する信仰の補助となる。
教会では、子どもたちに聖書を読み聞かせないだろうか。キリストや使徒たちなどの絵本を見せたり、芝居をさせることもあるではないか。それらに関して礼拝と崇敬の区別が付かない人々はいるだろうか。