「教会籍」を考える
竪琴音色キリスト教会には例えば「教会籍」のような、メンバーシップは存在しない。
開拓当初から「教会籍は設定しない」と決めていたからだ。
ちなみに「洗礼証明書」はあるのだが、最低限のことしか記入事項はない。
だから他の教会に自由に行けば良いし、私たちの仲間になっても大丈夫だし、ハイブリッドでも良いのである。
しかしながら最近、主に導かれた教会という出来事を「教会籍は教会が信徒を管理・監督して、献金を収奪できるようなシステムだ」という言説に還元するのは愚の骨頂だと感じることがある。
そりゃ、教会も問題を起こすことがあるし、故に、リラもいくつかの教会に関して、転出と転入の経験がある。
だけど、通常は対話しながら、礼拝に参加し続けて「ああ、この教会の一員になりたいな」と主体的に思うことが中心なのではないか。
リラも「教会籍」は嫌いだし、手続きが煩雑だし、上述の弊害とリンクしているから拒絶反応がある。
他方、自由放任主義には愛がないとも思ってしまう。
無論、愛とは余計な干渉をすることでなく、神の言葉はあるのか、聖霊の導きの証はあるのか、動機を識別したのか云々と関与することであり、一緒に祈ることであろう。
次に教会に問題があったとしても、福音が語られているならば、転出と転入は慎重になるべきというのも大切だ。
更に、以前と変化している状況もあって、例えば、LGBTQの問題だとか、偶像礼拝の問題、献金の問題をどう考えるにせよ、教会の方針と一致できず、その不一致が日常生活に影響して困難を覚えるなら、転出と転入を祈り始めるべきである。
いずれにせよ、教会と教師をコロコロと変更することは、それなりの理由が不可欠なのではないかと思う。
そして、あたりまえだが、「それなりの理由」とは、人間の都合でなく、神の導きでなくてはならない。
神の言葉を基礎にして、神の御心の中で、キリストに対する信仰の故に、聖霊に導かれて形成されるものである。
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