真理の霊
以下は、聖書に対する個人的な一意見ですが、皆様にも様々な意見を持っていただければと思います
どのような結論に到達するにせよ、ベレアの人々のように聖書を調べていただきたいと願っています
"この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。"
ヨハネの福音書 14章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この箇所で「世は見ることも知ることもないので」と書かれていますが、少し注意が必要です
新共同訳と比較してみましょう
「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
ヨハネによる福音書 14:17 新共同訳
「見ようとも知ろうともしないので」は文意を不明瞭にさせてしまいます(〜しようとする、というような意志的な要素はない)
何故なら17節で使われる「受け入れることができない」を規定する「δυναμαι」(ディナメー)の否定形は「〜することができない」が直訳だからです
即ち、新改訳第三版が適切な訳となります(英語だとcan not〜)
"その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。"
ヨハネの福音書 14章17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
少し詳しく考えると「ού δυναται」(オブ・ディナテ)は「〜することができない」以上に「〜する力がない」という意味なのです
故に「世は聖霊を受け入れる力がない」からこそ、「見ることもできないし、(経験的に)知ることもできない」という文章になります
「見る」は「θεωρω」(セオロー)ですから、その他に「識別する」「気付く」「経験する」「味わう」というヘブライ的な意味も含まれており、聖霊を「視覚的に見る」という訳は限定的すぎるかもしれません
読者に「聖霊は見ることの可能な御方なのか?」という誤解を与えるからです
さて次に「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とありますが、これは認識の基準について、世と、キリストを信じた私たちでは決定的に異なるということです
17節では、「真理の御霊」に関して、以下の二つの知り方に触れています
⑴世は知ろうとしない
⑵私たちは知っている
⑴と⑵の分岐点は、聖霊によって「キリストを受け入れているか否か」の一点に尽きます
"イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「キリストの霊」は、ヨハネの福音書で「真理の御霊」と言い換えられていますが、既に来ておられる御方であり、仮に来ておられなかった場合、聖霊降臨による教会の誕生も存在しないことになりますが、実際には教会は聖霊降臨からずっと存続してきました
ですから、聖霊を信仰の故に受容しないならば、神の霊として識別することも、経験的に知ることもできません
しかし、キリストを信じて聖霊を与えられた私たちは、キリストの霊が共におられ、内に住まわれる御方であると経験的に知っているのです
"しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。"
ローマ人への手紙 8章9~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会