序文
竪琴音色キリスト教会において、VERITAS Seminarii はキリスト教神学と聖書の予備的な共同研究をする〈対話〉の場である。カール・バルトは『ローマ書講解』の中で次のように述べている。
神学に限らず、私たちの仕事は予備的であるからこそ、相互に共同体的次元の協力を不可欠としている。純粋無垢な個人的次元の主義主張へと転落するならば、神学的な予備的作業としての〈対話〉を既に諦めたことになる。何故なら、神の言葉である主イエス・キリストは、聖書正典と伝承(Tradition)という二本の斜線が共に交差する普遍の教会を通じて、福音を私たちに告げる御方だからである。
使徒ヨハネは福音書で事実上、聖書に明記されていない諸々の真理が、使徒的監督職による口伝、儀礼、教義の諸形式で教会に伝えられていたと認識している。
キリストの陰府下降
上記の聖句はダマスコのアナニアから(使徒の働き9章10-19節)、キリストの使徒ペテロから(ガラテヤ書5章18節)伝えられて確認したものと言える。
何より、聖霊が直接、キリストの言葉として伝えたもの(ガラテヤ書1章12節)が「受けたもの」の本質を規定していたのである。
この「受けたもの」はギリシャ語の「παραλαμβανω」(パララムバノー)が使われており「傍に+取る」という基本的な意味から「受け継ぐ」「受け取る」という言葉として用いられるようになった。神はキリストを通して使徒パウロに初代教会から福音を受け継がせたのである。
加えて「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと」という初代教会の信仰告白が引用されているが、使徒パウロはキリストの十字架の死から復活させられた出来事の間に、キリストの埋葬を明記している。
過去の大雑把な定型化、及び、一連の神話的空想として「心も情けもない人間」(アリスター・マググラスによるステファン・ツヴァイクからの引用)と呼ばれた宗教改革者ジャン・カルヴァンだが、キリストの死を単純に模範として行動するべき、という勧告程度には考えていなかった。カルヴァンの主著『キリスト教綱要』を読むならば、彼を冷徹で残酷な裁判官のような人間に見立てて非難することはもう過去の話である。傲慢不遜な独裁者の誰が「我々の贖いの価を支払うため、彼があらゆることについてどれほどまで我々の身代わりを務めたか」(キリスト教綱要Ⅱ.2.7)と言うことができるだろう。
では一体、キリストが埋葬された時、何が起きていたのだろうか。使徒ペテロによれば、キリストは陰府に下降していたのである。但し、「陰府にくだり」の条項が初めて挿入されたのは4世紀後半だとされ、しかも、その頃の正統派からは支持されなかったと言われている。
キリスト教の伝承(Tradition)は千差万別な伝統(traditions)に彩られているが、キリストの埋葬と陰府下降は、聖書の中で引用された信仰告白の部分であり、教会を通じて継承された〈使徒伝承〉だったのである。
キリスト神秘主義
キリストに対する信仰は無条件で、徹底的に腐敗して罪深い私たちを過去・現在・未来に渡って義とする。だから初めは、神の客観的な真理としてのイエス・キリストを〈私〉が信じるのである。そのような段階を〈基本的信仰〉と呼ぶことにするが、キリストの死と復活こそ〈福音〉なのだと私たちは改めて認識するのである。
しかしながら聖書は、キリストに対する信仰を客観的な対象として扱ったままに放置せず、キリストの死と復活における一致と神秘的結合の〈事実〉を経験させるよう導いている。使徒パウロは神の言葉を語りながら、キリストの死と復活という福音を告げると同時に、キリスト神秘主義の伝統を伝えている。
主体的な真理として、キリストが主なる神に対して抱いていた信仰は、私たちの基本的信仰を既に包括している。即ち、キリストの信仰に私たちの基本的信仰が霊的に結合させられ、一致していくのである。そのような一致の過程で何が起きるのか、キリストの信仰に結合した私たちは自分自身に問わなければならない。
キリストの真実
キリストの真実は私たちにとって、自分自身の罪への鉄槌を下すものであった。例外なく、私たちの誰もが「偽り者」であって、神の御前で罪人として死に絶えていた。
使徒パウロはローマ書3章22節で、キリストの真実を通して(δια)、或いは、神の義が「イエス・キリストにおける神の真実によって」啓示されると書いた。神は私たちの罪をイエスの肉において既に処罰したので現在、キリストを信じる者に対して、すべての信じる人々を今、無罪にすることができる御方である。
神は私たちの信仰によって左右されるような神の義を与えたのでなくて、神の義を私たちの信仰が確立させることも不可能だとご存じだった。自分の信仰よりも、神の真実が私たちを絶対的に守り支えていることに異論はないであろう。私の信仰が私を救うのでなく、キリストの真実が神の義を明らかにして救うのである。
だから神に対して、私たちは罪の告白と悔い改めが不可欠な者でしかない。キリストの真実抜きの自己犠牲は偽善なのである。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
唯一である三位一体の神は、竪琴音色キリスト教会に対して主権者なる御方として現れている。主権者なる神の支配は「罪人のための救いの出来事」として教会が、キリストに服従するという旗印を掲げることなのだ
いずれにせよ、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という伝承的言説は聖書の外部から到来しているにも関わらず、聖書の中に内在化した神の言葉である。主権者なる神が沈黙しているのでなく、私たちが「私はその罪人のかしら」だと答えずにいることが極めて常態化しているのではないか。
福音宣教の〈包括的構造〉
キリストの真実へと向かわせる福音宣教の〈包括的構造〉こそが、VERITAS Seminarii として位置付けられているものとなる
主権者なる神からの、竪琴音色キリスト教会への至上命令は丈夫な人でなく病人を、正しい人でなく罪人を、キリストに導き、且つ、招くことなのだが、誰が誰を救うことが可能だろうか。
E.フッサールの弟子にして、カルメル会の修道女であったE.シュタイン(1891-1942)が以下のように述べる時、福音宣教の〈包括的構造〉に位置付けられた VERITAS Seminarii の〈キリスト神秘主義〉が、あくまでも神の言葉であるイエス・キリストへの集中以上でも以下でもないことを示している。