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VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー]第一楽章 「キリスト神秘主義」


序文


竪琴音色キリスト教会において、VERITAS Seminarii はキリスト教神学と聖書の予備的な共同研究をする〈対話〉の場である。カール・バルトは『ローマ書講解』の中で次のように述べている。

すべて人間のすることは予備的な仕事でしかない。そして他のすべての仕事にもまして、神学の書物にはこのことが妥当する。
カール・バルト著
『ローマ書講解・上』(
17頁)
平凡社ライブラリー

神学に限らず、私たちの仕事は予備的であるからこそ、相互に共同体的次元の協力を不可欠としている。純粋無垢な個人的次元の主義主張へと転落するならば、神学的な予備的作業としての〈対話〉を既に諦めたことになる。何故なら、神の言葉である主イエス・キリストは、聖書正典と伝承(Tradition)という二本の斜線が共に交差する普遍の教会を通じて、福音を私たちに告げる御方だからである。

"イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。"
ヨハネの福音書 20章30~31節
聴くドラマ聖書

使徒ヨハネは福音書で事実上、聖書に明記されていない諸々の真理が、使徒的監督職による口伝、儀礼、教義の諸形式で教会に伝えられていたと認識している。


キリストの陰府下降


"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。"
コリント人への手紙 第一 15章3~5節
聴くドラマ聖書

上記の聖句はダマスコのアナニアから(使徒の働き9章10-19節)、キリストの使徒ペテロから(ガラテヤ書5章18節)伝えられて確認したものと言える。

何より、聖霊が直接、キリストの言葉として伝えたもの(ガラテヤ書1章12節)が「受けたもの」の本質を規定していたのである。

この「受けたもの」はギリシャ語の「παραλαμβανω」(パララムバノー)が使われており「傍に+取る」という基本的な意味から「受け継ぐ」「受け取る」という言葉として用いられるようになった。神はキリストを通して使徒パウロに初代教会から福音を受け継がせたのである。

加えて「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと」という初代教会の信仰告白が引用されているが、使徒パウロはキリストの十字架の死から復活させられた出来事の間に、キリストの埋葬を明記している。

この、それ自体としては全く些細なとるに足らぬ、何の知識をも提供するとは思えない真理、イエス・キリストが葬られたということは、Ⅰコリント一五・四から学ぶように、パウロにとっては重大な問題となっていたのである。
いみじくも彼はそこに、洗礼において人々の身に起こる現実、すなわち、われわれがイエス・キリストとともに葬られたということを見たのである。
カール・バルト著
『われ信ず』(78)
新教出版社

過去の大雑把な定型化、及び、一連の神話的空想として「心も情けもない人間」(アリスター・マググラスによるステファン・ツヴァイクからの引用)と呼ばれた宗教改革者ジャン・カルヴァンだが、キリストの死を単純に模範として行動するべき、という勧告程度には考えていなかった。カルヴァンの主著『キリスト教綱要』を読むならば、彼を冷徹で残酷な裁判官のような人間に見立てて非難することはもう過去の話である。傲慢不遜な独裁者の誰が「我々の贖いの価を支払うため、彼があらゆることについてどれほどまで我々の身代わりを務めたか」(キリスト教綱要Ⅱ.2.7)と言うことができるだろう。

死はその軛によって我々を拘禁していたが,キリストは我々を救い出すために、身代わりとなって死の権力の下に御自身を置かれた。使徒が「彼は全ての人のために死を味わわれた」(ヘブル2:9)と書いたのはこの意味である。すなわち、彼が死にたもうた結果、我々は死ななくて済んだ。中略。自ら死に屈服することに甘んじたとはいえ、これは死の権力に圧倒されるためではなく、むしろ、我々を脅かし、いや既に抑圧して嬲(なぶ)りものにしていた死を投げ倒すためであった。

彼の葬りも同様である。つまり、我々は彼の葬りに合わされて、罪に対しても・己に対しても葬られた。

したがって、キリストの死と葬りの内に二重の恵みが我々に享受されるべく差し出されている。すなわち、我々を繋ぎ留めている死からの解放と、我々の肉の死滅である。
ジャン・カルヴァン著
『キリスト教綱要 改訳版』(Ⅱ.2.7)
新教出版社

では一体、キリストが埋葬された時、何が起きていたのだろうか。使徒ペテロによれば、キリストは陰府に下降していたのである。但し、「陰府にくだり」の条項が初めて挿入されたのは4世紀後半だとされ、しかも、その頃の正統派からは支持されなかったと言われている。

"キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。"
ペテロの手紙 第一 3章18~19節
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キリスト教の伝承(Tradition)は千差万別な伝統(traditions)に彩られているが、キリストの埋葬と陰府下降は、聖書の中で引用された信仰告白の部分であり、教会を通じて継承された〈使徒伝承〉だったのである。

キリストは死んで死者たちの住まいに下られたのですが、聖書はそこを陰府、またはシェオル(Sheol)ないしハデス(Αιδης)と呼んでいます。そこにいる者たちは神を見ることができないからです。悪人であるか正しい人であるかを問わず、とにかくすべての死者があがない主を待っていて、この状態にあったのです。…中略。イエスが死者のもとに下られたときにお救いになったのは、地獄に落ちた者たちをそこから救い出すためでも、地獄を破壊するためでもなく、ご自分に先んじた正しい人々を解放するためでした。
カトリック中央協議会
『カトリック教会のカテキズム』(633)
日本カトリック司教協議会認可

キリスト神秘主義


キリストに対する信仰は無条件で、徹底的に腐敗して罪深い私たちを過去・現在・未来に渡って義とする。だから初めは、神の客観的な真理としてのイエス・キリストを〈私〉が信じるのである。そのような段階を〈基本的信仰〉と呼ぶことにするが、キリストの死と復活こそ〈福音〉なのだと私たちは改めて認識するのである。

"ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、
きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。
神が許されるなら、先に進みましょう。"
ヘブル人への手紙 6章1~3節
聴くドラマ聖書

しかしながら聖書は、キリストに対する信仰を客観的な対象として扱ったままに放置せず、キリストの死と復活における一致と神秘的結合の〈事実〉を経験させるよう導いている。使徒パウロは神の言葉を語りながら、キリストの死と復活という福音を告げると同時に、キリスト神秘主義の伝統を伝えている。

キリストと共に死にキリストと共によみがえるという思想は、われわれを、われわれ自身の存在との内面的な対決に導くのであるが、それは同時にわれわれを絶えずより広範囲な領域に伴い行くものでもある。
われわれは、われわれが不断に新しく出会う出来事の意義の解明をこの思想から与えられるのである。
この思想は、われわれをさまざまな出来事のうちにいたずらに没入させないで、それらの出来事のうちにあって、自然的な存在から霊にある存在にいたるべくわれわれに定められた道を尋ね求めるようにわれわれを励まし促すのである。
われわれが平穏無事な生活を送ろうと欲するとき、この思想は次のような問いを以てわれわれに襲いかかってくる。
曰く、キリストによってとらえられているというその生命は、汝の思いのうちにあってもはや力尽きているのであるか、キリストによってとらえられているということは、単に、汝の生の地平線上の遠い彼方からきこえてくる言葉であるにすぎないのであるか、と。
アルベルト・シュヴァイツァー著
『使徒パウロの神秘主義・下』345-346
白水社

主体的な真理として、キリストが主なる神に対して抱いていた信仰は、私たちの基本的信仰を既に包括している。即ち、キリストの信仰に私たちの基本的信仰が霊的に結合させられ、一致していくのである。そのような一致の過程で何が起きるのか、キリストの信仰に結合した私たちは自分自身に問わなければならない。

"まことに私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。"
詩篇 51篇16~17節
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キリストの真実


キリストの真実は私たちにとって、自分自身の罪への鉄槌を下すものであった。例外なく、私たちの誰もが「偽り者」であって、神の御前で罪人として死に絶えていた。

"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。"
エペソ人への手紙 2章1~3節
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使徒パウロはローマ書3章22節で、キリストの真実を通して(δια)、或いは、神の義が「イエス・キリストにおける神の真実によって」啓示されると書いた。神は私たちの罪をイエスの肉において既に処罰したので現在、キリストを信じる者に対して、すべての信じる人々を今、無罪にすることができる御方である。

"なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。"
ローマ人への手紙 10章9~13節
聴くドラマ聖書

神は私たちの信仰によって左右されるような神の義を与えたのでなくて、神の義を私たちの信仰が確立させることも不可能だとご存じだった。自分の信仰よりも、神の真実が私たちを絶対的に守り支えていることに異論はないであろう。私の信仰が私を救うのでなく、キリストの真実が神の義を明らかにして救うのである。

しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。
神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。
ローマの信徒への手紙   3章21-22節
聖書 聖書協会共同訳 日本聖書協会

だから神に対して、私たちは罪の告白と悔い改めが不可欠な者でしかない。キリストの真実抜きの自己犠牲は偽善なのである。

"次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。
耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。
私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」"
テモテへの手紙 第二 2章11~13節
聴くドラマ聖書

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」


唯一である三位一体の神は、竪琴音色キリスト教会に対して主権者なる御方として現れている。主権者なる神の支配は「罪人のための救いの出来事」として教会が、キリストに服従するという旗印を掲げることなのだ

神の真実とはもっとも深刻な人間の疑わしさと暗闇の中に神が入り込み、留まることである。中略。われわれは本当に地獄の底にいてもかれにおいて神の真実を見る。メシアは人間の終極である。そこにおいても、まさにそこにおいてこそ神は真実である。神の義の新しい日は「廃棄された」人間の日と共に始まる。
カール・バルト著
『ローマ書講解・上』(198-199)
平凡社ライブラリー

いずれにせよ、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という伝承的言説は聖書の外部から到来しているにも関わらず、聖書の中に内在化した神の言葉である。主権者なる神が沈黙しているのでなく、私たちが「私はその罪人のかしら」だと答えずにいることが極めて常態化しているのではないか。

"「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。"
テモテへの手紙 第一 115
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福音宣教の〈包括的構造〉


キリストの真実へと向かわせる福音宣教の〈包括的構造〉こそが、VERITAS Seminarii として位置付けられているものとなる

"それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
マルコの福音書 21517
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主権者なる神からの、竪琴音色キリスト教会への至上命令は丈夫な人でなく病人を、正しい人でなく罪人を、キリストに導き、且つ、招くことなのだが、誰が誰を救うことが可能だろうか。

「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭10:4-8‬
聖書 口語訳 日本聖書協会

E.フッサールの弟子にして、カルメル会の修道女であったE.シュタイン(1891-1942)が以下のように述べる時、福音宣教の〈包括的構造〉に位置付けられた VERITAS Seminarii の〈キリスト神秘主義〉が、あくまでも神の言葉であるイエス・キリストへの集中以上でも以下でもないことを示している。

神について語ることは、すべて神が語ることを前提にしている。神の最も本来的な語りは、人間の言葉がそれに面しては沈黙しなければならないところのものであり、いかなる人間の言葉にも、いかなる像言語にも入って来ないところのものである。それは、そこで発せられることを把握することであり、そのような仕方で認識することを可能にする条件として、人格的な委託が要求される。
エディット・シュタイン著
『現象学からスコラ学へ』(251)
九州大学出版会


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