主の母マリアが「神の母」であり、キリストはマリアから、神の備えられた体を通して降誕してくださったことを私たちは信じている。
神の母聖マリアはキリストの受肉において福音の一端を担って、キリストの公生涯と十字架の死と埋葬、使徒ヨハネにその身を託されたことを経験した。
そして死者の内からの復活と空の墓における出会いを通じて、キリストの昇天による別れの後、主の約束である聖霊降臨を待ち望んで使徒たちと一緒に祈っていたのである。
ここまでで、主の母マリアに関して諸教会間は一致するはずであるが、逆説的に、ここからが諸教会間の不一致を生じさせてしまう岐路となっている。その岐路をキリスト教会における一致の根拠とするか、それとも多様性の根拠とするかは私たち次第である。
さて、聖霊降臨後、主の母マリアの名前は聖書から消え去る。厳密には主が派遣されたことを強調するために、使徒パウロの書簡に「女」(γυνη、ギニ)として書かれている。
ヨハネの黙示録でも比喩的に、即ち、教会の母としてマリアは再登場する。
しかしながら、歴史的には聖書からマリアに関する記述は途絶えることになる。ということは聖書解釈的に、そこからの足跡を辿るかどうかは自由と考えて良いことになる。
諸伝承と数々の文書資料によれば、キリストの昇天後、マリアはなお24年間生きていたらしい。処女懐胎は彼女が14歳の時で、15歳で出産して、それから33年間を御子と一緒に暮らしたとされる。
キリストの公生涯における宣教期間が3年であることは、ヨハネの福音書の以下の箇所で確定されている。
⑴ユダヤ人の過越の祭り。
⑵ユダヤ人の祭りである過越。
⑶過越の祭り。
キリストが亡くなられた後、マリアは24年生きていたと言われており、彼女が亡くなったのは72歳の時だと伝えられている。
その際、主によって十二使徒たちが集められて、主はマリアに対して詩篇45篇によって語られた。
マリアはルカの福音書1章48-49節を歌いながら「痛みも苦しみもなく」帰天したのである。
主は使徒たちに「ヨシャファテの谷」(ヨエル書3章2節、12節、14節)に主の母の埋葬を命じた。
ところで、「ヨシャファテの谷」と「キデロンの谷」は同じである。
だから、主がキデロンの谷の向こうに出て行かれた時、神の裁きを主が担って、キリストを信じる私たちが罪に定められることなくなるための十字架を示唆していることになる。
話を戻すが、マリアの帰天後の出来事とその後の被昇天について、使徒たちは何の報告も残していない。だから被昇天は、歴史的な真実というよりも、信仰的な真実が生み出した聖伝と言える。
当時、あえて「被昇天」(羅・Assumptio、承認、是認の意)とは言われず、「聖母の永眠」(睡眠、休息)などと呼ばれていただけである。だから、マリアの被昇天聖伝の以前に、聖母の永眠への信心が存在しており、8月15日を記念日としたのは、6世紀のローマ皇帝マウリキウスであった。故に、西ヨーロッパにおける聖母被昇天の聖伝は、7-8世紀頃に完成したと考えられる。
言うまでもなく、プロテスタントの諸教会は、被昇天聖伝を認めない。
しかしながら、キリストの昇天に続く、マリアの永眠と被昇天を私たちは、自分自身の救いの「型」として、被昇天の神秘を黙想しながら受容する。