キリストだけが私の道
先日、自分自身のカトリックへの道の原点を考えてみた。
母の胎内にいた時から祈り続けてくれたモニカさんは、どの教皇の時に教会生活を送っていたかを調べたら、聖パウロ6世 (1963-1978年)の間であった。
前任の教皇ヨハネ23世 は第二バチカン公会議を実施・開催することができたが1963年に帰天した。
教皇ヨハネ23世の帰天により、第二バチカン公会議は聖パウロ6世によって引き継がれることになった(1962-1965年)。
聖パウロ6世の在位期間に、モニカさんはカトリックの信仰を与えられ、子どもたちも次々と救われた。
私がプロテスタントの某教会でキリスト者になって実家に帰宅した時、彼女の息子さんがバチカン市国から日本に帰国したばかりで、当地の十字架(ネックレスのヘッダー)をプレゼントしてくれた。
モニカさんは教派を一切、問うことなく、キリストを信じる者になったこと自体をひたすら喜んでくださった。
キリスト教にはカルケドン派と非カルケドン派の分裂がある。
カトリック教会と東方正教会群との大分裂のキズが現在でも残っている(共同陪餐が不可)。
15世紀のカトリック教会はプロテスタントを従来の改革運動のように内面化させることに失敗し分裂した(現代カトリックは当時の統治能力の欠如を自己批判)。
加えて、6世紀におけるカンタベリーのアウグスティヌスによって宣教された英国が国王の結婚問題によって分裂した。
国王は英国国教会を成立させ、英国のカトリック教会は社会的なマイノリティになった。
聖ニューマン卿の偉大さは英国国教会の名声をすべて捨ててカトリックに戻ったことにある。
近年において、第二バチカン公会議を受容するか、否定するかによって、カトリック内部で議論が白熱した。
教皇空位主義者等々、カトリック内部にとどまって公会議を非難し続ける諸団体もあれば、カトリックから分離して公会議を非難している破門された諸団体も存在する。
話を元に戻すと、モニカさんは聖パウロ6世の影響を受けたカトリック教会に信仰を導かれたのである。
私の母親は「ヒトラーの教皇」とも批判されるピオ12世の在位期間にカトリック教会へ通っていた。
だが教会の姉妹たちから、労働組合に所属していた私の父親との結婚を激しく反対されて躓き教会を去った。
ピオ12世の時代、ナチスに対して沈黙を貫き、ホロコーストに無力だった教会は悲劇であった。
反共産主義や無神論に対する極端な攻撃と批判が人々への偏見と差別につながり、福音を伝えるどころか、社会主義思想や福祉などをすてなければカトリックにはなれない、──そんな時代だった。
私の母親は当時のカトリック教会から「あなたが結婚しようとしている男性(私の父親)は「労働組合に参加しているから社会主義者だ」「無神論者でサタンだ!」「そんな男と結婚すべきではない!」と求道者にも関わらず、罵詈雑言を受けて深いキズを心に受けて、カトリック教会に二度と行くことはなかった。
現代の私たちからすれば、カトリック教徒たちの反共思想、無神論の敵視、労働組合に参加しているだけでサタン扱いをするなんて、とても想像できないであろう。
しかし当時の教皇ピオ12世は共産主義に怯えて、ナチスとホロコーストを黙認していた。
小教区にもその影響は浸透していたのである。
だから私の母親は時代に翻弄されて正しく対応できなかったカトリック教会の犠牲者なのだ。
数年前、某司教区の司教に母親の件で相談した時、「あの時代は教会に来た人々を思想信条で追放しつつ矯正していました…とてもお母様は辛かったと思います」「今はそのような非寛容ではありません」と返答された。
私の父親は社会主義者でも無神論者でも何でもなかった。
父親の名誉のために言うが、母親は普通に父親の優しい人柄に惹かれて結婚したのである。
その結果、カトリック教会から追放された母親から私が生まれて、罪に苦しんで、神は教会を通じて私を拾ってくださった。
聖パウロ6世によって、過激な保守主義から解放されたカトリック教会、及び小教区の教会は、新しくされてモニカさんを私のための祈り人としてくれた。
「毎日、あなたのために祈っていました」。
「あなたがキリストを信じることができますように」。
そのように満面の笑顔で喜んでくださった。
そんなモニカさんは、私の社会人初期に病気で帰天した。
私の母親から泣きながらモニカさんの死を告げられて、私は母親を慰めた。
ピオ12世の厳格保守の路線の教会で躓いた私の母親。
聖パウロ6世の在位期間の教会でバランスの良さで育てられた私の母親の親友だったモニカさん。
時代は何と残酷なことか。
私はそのようなモニカさんに祈られていたせいか、プロテスタントの教会で受洗したし、教会生活に神学生になるほど熱心だったが、牧師の職務を続けて「もう駄目だ」という限界に何度もぶつかった。
自分の中に誰かからの呼びかけがあって、そのような声を拒絶しても逃れることはできない謎もあった。
そんな時、すべてを捨てて牧師として教会奉仕をしていたのだが、ひょんなことから、カトリック麹町聖イグナチオ教会に行くことになった。
カルメル会の第三会の方に教会を案内してもらったことに感謝している。
省略するが私に大事件が起こって、プロテスタントに居場所がなくなった。
絶望しつつも一応、献身者であり牧師だったから、極度な希死念慮を日々、拒絶する戦いから逃亡することはなかった。
教会の礼拝を当時の仲間たちと続けたが、その時の説教音源を聴くと「あんな地獄体験があったのに崩れることなく、神の言葉を伝えている──信じられない」と思ったこともある。
モニカさんに祈られていたことを思い出して「もしかするとカトリックが 教会が我が家だったのではないか」と感じるようになっていった。
たくさんの不思議なことが起こったが、最初の一歩となったのが、イグナチオ教会のミサ中、聖体拝領の時のことだ。
主の言葉が心に響いてきた。
ああ、キリストの言葉が何度も何度も私の心の一番深い場所に届いてきて、私は嗚咽を必死に抑えて、溢れる涙を流すに任せた。
今では思い出せないその司祭はいつもと違う言葉で私に祝福してくださった。
それからもスッタモンダの日々だったが、私の方向性は定まった。
誰からも捨て去られた私を、イエス様はまたしても拾ってくださった。
何らかの教派でなく、どこかの教会ではない。
ただ、キリストだけが私の慰め、心の支え、安息となってくださったのである。
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。