異教の儀式とキリスト教信仰 -焼香問題を考える-
何十年も前に議論され尽くした問題が、このように現場の苦難を通して新しい装いで登場する。
ある人々は、以下の聖句が引用してて、焼香を正当化している。
しかしながら、使徒パウロは異教の宗教儀式を認めたのでなく、あたりまえの話だが、キリスト者になる以前に偶像礼拝をしていた人々から「偶像を崇拝しなければならない恐怖心」「焼香をあげなければならない義務感」などから解放させるために「唯一の神以外には神は存在しない」ことを知っているではないか?と、コリントのキリスト者たちに返答しているのだ。
だから、弱い人々にはこの知識がないため、悲惨な状態にある。
弱い人々を軽んじているのでなく、弱い人々の「良心」が偶像礼拝によって汚されることを、使徒パウロは心配しているのだ。
「良心」は「συνειδηδις」(シニディシス)で「意識」「自覚」という直訳にすべきである。
「汚れる」は「μολύνω」(モリノー)で「けがれる」「汚くなる」という意味である。
ということは、キリスト者として弱い人々の弱い意識が汚されると、どうなるのか?
偶像礼拝には何の意味もないが、「躓き」「滅びる」のである。
即ち、異教に与しないことで、未信者たちから冷遇されるのはあたりまえなのである。
第Ⅰコリント書8章は、キリスト者として弱い自覚がない者だとか、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」(4節)という知識がない者たちに向けて書かれていることを忘れてはならない。
キリスト者が異教に与しないことで躓く未信者が多数、存在するのは仕方ないが、弱い意識のキリスト者たちに対しては最大限の配慮がなされるべきなのである。
焼香の異教的意味とその経緯は指摘する暇はないが、死臭を消すだけの意味が、日本では先祖崇拝につながったのも事実である。
「仏壇に挨拶して、焼香をあげたら、故人も喜ぶから」と、世の人々は圧力をかけてくるが、やんわりと拒否しても良い。
憲法では信教の自由が認められているのだから、自発的にキリスト教を信じた方々の邪魔をすべきではない。
キリスト教には確かに「香」と「香炉」が存在し、リラたちも礼拝中に使う時があるのだが、「香」は、唯一にして三位一体の神に対する祈りの可視化である。
そして私たちの信仰は弱い人々を含みながらも、「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけ」(6節)なのである。
このように聖書は複雑な内容を使徒の意向に添いながら、聖霊によって解釈しなければならないから、聖句の引用が自分自身の主張と意見に利用しているか否かを検証していきたいと思う。
少なくとも使徒ヨハネは次のように書いている。
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