VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第五楽章「Eucharist〈3〉」
批判的精神の形成
プロテスタントの将来について、私たちは悲観的になるしかないのだろうか。
ローマ・カトリック教会に対する批判的精神の形成がプロテスタントの存在意義だとしたら、その役割は終わったのだろうか。信仰義認、聖書の母国語による翻訳、典礼における母国語の使用云々。
北イスラエル王国が人工的な祭壇をサマリアに設置し、王が職制を定めてしまい、南ユダ王国より先に滅びてしまった。
プロテスタント教会における聖餐の回復は、未だに途上に過ぎないが、まさに「洗礼が終末論的で、一度限りの究極的な出発のしるしであると同じように、主の食卓における規則的・永続的な交わりは、終末論的なその途上にあることのしるしである」(J.モルトマン著『聖霊の力における教会』345-346頁)。
聖霊降臨の祈り(エピクレシス)に言及することさえできなかった。
しかし、キリストは聖餐において常に、私たちに「超実体」(supper substance) として臨在している。
地理的距離の超越
こうして私たちは、上記のような聖餐の教義学的文法と聖餐の執行の考察をせざるを得なくなる。
何故なら、聖餐の教義学的文法の言葉と、聖餐執行の司牧的現場の乖離しているからだ。
例えば、教会論とも結合しているが、聖餐は地理的距離を超越できるか否かという問題がある。
受洗者が教会共同体から地理的に離れた場所に住んでいる時、通常は地域教会の礼拝に参加するが、散らされた人々と伝道者ピリポの宣教によって、遠隔地にまで福音は届くことになる。
異邦人初のアンテオケ教会(司教座教会の一つ)がそうであり、エチオピアにおけるキリスト教の拡大(エチオピア正教会・非カルケドン派)もその影響下にあったかもしれない。
信仰告白と洗礼は一回限りの出来事であり、言わばキリスト者生活の始まりに過ぎない。
だから、ここでは遠隔地に洗礼執行者が行くか、若しくは、洗礼希望者が教会共同体の地域に来れば事足りる。
だが、聖餐式は主日毎に執行されるはずなので、遠隔地の兄弟姉妹と共に与ることは殆ど手段が存在しないように思われている。
「求道者はその地域の教会に任せ、洗礼を授ける必要はない」などの正論も頷ける。
洗礼は教会共同体への霊的な参加、特に地域的な参加を意味しているからだ。
だからこそ、使徒パウロもローマの諸教会に対して 「是非、会いたい」と願い、果たせなかったからこそ、ローマ書という手紙(通信手段)を残すことができた。
真偽はわからないが、結局、使徒とローマの諸教会とは共に励まし合うことができたと思われる。
他方、別の角度から考えてみると、新約聖書の手紙という通信手段は、諸教会で広まり朗読された。
そして、現代の私たちは第一に、電話による祈りを否定していない。
共に祈ることができれば理想的だが、キリストの御名によって、霊の祈りを捧げていることになる。
「わたしの名によって集まっている所」の「集まっている」は「συναγω」 (シナゴ一)が使われているので、そのまま「集まる」 という意味だが、キリストの御名によって集まる以前に 「心を合わせるなら」とあるが、この箇所は「συμφωνω」 (シムフォノー)が使われており 「調和する」「和合する」「一致する」、「同意する」「約束する」という意味である。
直訳は「響きを共にするならば」である。
聖餐の最低条件は、二人が心から一致して調和することなのである。
「わたしの名によって」は「ειστ το εμον ονομα」(イスト エモン オノマ)であり「他の誰でもない私の名前の中へ」「イエスの権威の下に」という意味だが、「二人が心を共に響合わせるなら」 教会であり、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所」も教会なのである。
リアルタイムと同時性
第二に、インターネットだとか、端末の通信機能による説教も受容している。
注意しなければならないが、インターネット礼拝を推奨しているのではない。
逆に、インターネットや端末の通信機能を遠隔地礼拝のツール(道具)として使う条件は時間的要素が存在していること、即ち、リアルタイムが導入されているか否かである。
聖餐は遠隔地の方々が自分で用意しなければならないので「万人祭司」 (信徒の普遍的祭司性)として聖餐奉仕者になる。
聖餐は教会の式文に合わせて同時に執行される。
この「同時性」を高めていくことが、共に集まりたくても困難な状況に対する、暫定的でも大切な措置となる。
キリスト者間の離散が問題になる場合、キリストと共なる霊的一致が既に実現しているという信仰が不可欠であるが、あくまでも説教と聖礼典の執行を核とする「集会の家」 (domus eclesiae J. ユングマン著 『古代キリスト教典礼史』 132頁)にとって遠隔地の諸個人、家族、集会は衛星的な地位である。
それ故、遠隔地の聖餐奉仕者が「集会の家」に対して積極的な罪で抵抗するようになった時、教会戒規としての「陪餐停止」はなく、単純に聖餐奉仕の剥奪が検討される。
本来、地理的距離によって聖餐に参与できないことを自覚させることで罪に対する抑止力となる可能性がある。
聖餐と愛餐の結合
私たちの霊的位置は、昇天したキリストと共にあり、キリストの時と永遠を共有する「同時性」に基づき、聖餐において時間の中のキリスト者の霊的関係は、地理的距離を常に越境している。
このようなキリスト者の同時性と関係は決して比喩ではない。
「聖餐で共に集まっていないではないか」という批判もありそうだが、聖餐を成立させた聖書はただの手紙ではなく「キリストの手紙」でり、そのような聖餐の段階も認識できると思われる──本来、 私たちが「キリストの手紙」でなければ、聖餐に与ることもできない。
このような聖餐の執行は地域教会を肯定したまま、遠隔地に住む兄弟姉妹と共なる陪餐は「家の教会」の連携を前提としていく。
私たちは再び、聖餐と愛餐を結び合わせていくことになるだろう。
スコットランドのエディンバラ大学のキリスト教教義学教授だったトーマス・T・トーランスは次のように書いている。
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