キリストの受肉(incarnation)はキリスト教において、どのように位置付けられるだろうか。キリストの受肉を祝うクリスマス、キリストの復活を祝うイースター、聖霊降臨による教会の誕生を記念するペンテコステは三大祝祭日とされるが、しかし本来、受肉と復活と聖霊降臨を同一の地平に並べて、霊的な優劣をつけることはできるのだろうか。
或る説教者は受肉よりも復活が大切であると強調して、真理に優劣をつけることを事実上、認めている。
キリストの復活が起こらなければ、キリストの十字架の死という贖罪的意味は空虚なものとなり、教会も存在することはなかったであろう。
キリスト論を最優先にすることは私たちをキリスト中心の信仰に導くという点で、一にも二にも神学的な真理なのだと断言することができる。
他方、キリストの受肉はどうしても、マリアの信仰(Fiat)抜きには語ることさえ不可能である。
キリストの受肉は処女マリアが聖霊によって身籠ったという特殊啓示のため、これを「非科学的である」「あまりにも荒唐無稽で信じることができない」として斥けるのは簡単であろう。
そのような方々はキリストの復活も、聖霊降臨による教会の誕生も信じることができず、躓くのも時間の問題であろう。
ドイツの哲学者カント(1724-1804年)に言われるまでもなく、限られた理性的認識の下、私たちはキリストの受肉の神秘を完全に汲み尽くすことはできないのだ。
中世の代表的な神学者トマス・アクィナス(1225-1274年)は、プラトンの「普遍」「絶対」「イデア」を批判して、アリストテレスの「特殊」に注目したが、それらの「特殊」が「普遍」と「絶対」から独立して、自律的なものにされた結果、「特殊」が普遍化・絶対化して逆に「特殊」の意味が消えてしまった。
これこそ、理性的な信仰の限界である。
ローマ・カトリック教会に対して、改革者として立ったはずのプロテスタント諸教派が、現在に至るまで分裂に分裂を重ねて、剰え、プロテスタント諸教派という諸教派の特殊性が普遍化し絶対化している惨状を果たして、単純に〈多様性〉と呼ぶことはできるだろうか。
主の兄弟ヤコブは「十二部族」に宛てたのだが、それらの称号はキリストを信じている私たちの称号である。
カトリック、正教会、聖公会、プロテスタント諸教派という基礎的な範疇が存在しているが結局、神の民である私たちは使徒パウロが「神のイスラエル」(ガラテヤ書6章16節)と呼ばれている者たち、即ち、キリストに愛された教会なのである。
「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」と書いているように、神は「主イエス・キリストの父なる神」なのであり、同時に「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」(ヨハネの福音書20章17節)なのである。
特殊的な多様性を拡散させても、究極的には「離散」(ヤコブ書1章1節)することになる。「離散」は「キリスト者が離散して各地に住んでいる」というニュアンスである。
主の兄弟ヤコブの意図がどうあれ、キリスト者たちの離散は教団教派における分裂分派でなく、あまりに拡散してしまって信仰的な接合点さえ失ってしまう、アリストテレス的な「特殊性」を自律存在として教会と主張するものでもない。
彼は教会を、キリストの十二使徒の治める霊的な十二部族として扱っている。キリスト御自身が教会の礎石であり、使徒たちと預言者たちが土台となったのである。
聖書正典はそのような意味で、神の言葉の権威が存在しているのである。
尚、教会とは何かと問うならば、キリストという礎石、及び、使徒たちと預言者たちの言葉が記された聖書正典を土台としながら、キリスト者たちが使徒的な務めを継続させ、神の愛において建て上げていくものなのだ。
現状、神のイスラエルは霊的な十二部族として離散しているかもしれないが、キリスト者の一致という視点で洞察すると、神の言葉としての福音が聖書と教会を通じて宣教されていることが了解できるはずである。
制度的な、組織的な一致でなく、霊的な体験の一致でもない。
神の言葉であるキリストの愛による一致は静態的なものでなく動態的なものであって、すべての時と場所を越えて聖霊に導かれながら、自由自在に横断していくものなのであろう。
その上で、キリストを信じて離散した私たちは定立-教派主義(These)にはならないし、反定立-教派主義(Antithese)にもならない。
言うまでもなく、定立と反定立の間を揺れ動く不安の塊になることもしない。
総合-教派主義(Synthese)で包括的に福音を妥協することもできない。
この「わざわい」は「ουαι」(オヴェー)で、罰を恐れるような響きなのでなくて「福音を伝えずに「天幕を商品として売るだけならば〈ウェー〉というしかない」「何と情けないことか」「あまりに悲惨である」という感情の嘔吐と理解できる。
加えて言うならば私たちは、脱-教派主義でもなければ、超-教派主義に陥ることもしない。ならば福音宣教をせず、キリスト者として引き篭もるというわけでもない。
そのようなわけで初め、主に導かれて福音を宣教した時、自分自身という〈私〉をどのように自己規定すれば良いのか、理解不能であった。アリスター・マググラス(1953- )が自らの信仰の系譜に関して嘆いたように、キリストを信じる者として無知蒙昧という荒野を彷徨うしかなかったのである。
神学的な共同作業は、アリスター・マググラスが抱いたような自分自身の信仰の系譜に対する渇望を動機とする。
ローマ・カトリック教会ではマリアに関する「無原罪の御宿り」という教義(宣言、カテキズム)があるのだが、プロテスタントからすれば聖書に「義人はいない、一人もいない」「すべての人は罪を犯した」と書いている以上、絶対に認められない教義であり、そのような聖書解釈を拒絶することであろう。
しかしながら、双方には「恵み」と「原罪」に対する理解と読み方に深い隔たりがあるのではないかと考えることができる。
神は、天使ガブリエルを通じて「おめでとう。恵まれた方」(=喜びなさい。恵まれた方)とマリアに伝えている。
私たちは恵みをどう理解しているだろうか。
神からの恵みを一方的、且つ、不可抗力的なものと認識するのも間違いではないが、神の恵みは本来、創造論と関係がある。
三位一体の神は位格間で永遠の愛に満ちていた御方だが、主の満ち溢れる愛は人間を創造することになった。
しかしながら人間は、神から被造物の冠として造られた人間は神の言葉に逆らって堕落して、罪の故に死ぬ者となった。正統か異端かの識別として、原罪を自分自身がサタンの誘惑に屈して、妻の言葉を鵜呑みにするか、それとも、サタンの誘惑に責任転嫁するかという点が非常に重要になってくる。議論の余地なく、神の言葉に逆らった原罪の責任は自分自身に徹頭徹尾あるというのが正統教義である。そうでなければ、どうして主は荒野でサタンの誘惑に勝利しなければならなかったのか、解釈不可能になってしまう。
同時に、神の形を堕落の結果、私たちは失ってしまい、神に似ても似つかない存在になってしまった。
しかしながらキリストは神の形として(コロサイ書1章15節)、私たちに神の形を回復してくださったのである。
神の形が回復するとは、キリストの似姿へと新しく創造されていくということだ。神の形の回復、これを神の恵みという。
マリアは人類史上、初めて、そのような意味で神からの恵みを受けて、神の形であるイエス・キリストを宿した女性なのである。
実際、エリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」
(ルカの福音書1章45節)と言っているが、これはエリサベツの夫ザカリヤという祭司の不信仰を嘆き、マリアに対して羨望の思いを持った嘘偽りのない称賛であろう。
エリサベツの称賛に対して、マリアは「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(ルカの福音書1章48節)と告白している。神からの祝福がエリサベツからマリアへと流れ溢れたのである。
公生涯において主イエスはある女性から「あなたを宿した胎は、あなたが吸った乳房は何と幸いでしょう」と言われたが、真っ向からこれを否定している(ルカ11:27-28)。「しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(ルカの福音書11章28節)。
さて、主の母マリアは自分の息子イエスがキリストであると信じていなかった時は家に連れ戻そうとしたことがある。気が狂ったと思い込んでしまった。
それなのに十字架上で、主イエスはマリアを「愛する弟子」に委ねたのである。
イエスをキリストだと信じた後のマリアは使徒たちと一緒に祈っていた。
だからこそ、マリアの信仰はキリスト者の信仰の模範であり、教会の霊的母性の「原型」なのである。
使徒パウロはキリストを「女から生まれた者」として、教会は「あなたがたの母」としている。
①女から生まれた者。
②私たちの母なる教会。
使徒ヨハネは十二の冠を被った女性、即ち、教会として描写している。
使徒パウロの「女」「母」、使徒ヨハネの「一人の女」はマリアと教会を霊的に統合して語っている。マリアの信仰はロザリオの祈りとなって溢れ流れるものだが、キリストに向かわせるために教会へと導く横断性となっている。何故なら今でも、主の母マリアは私たちのために祈ってくれているからだ。