キリストにある信仰者の普遍的祭司性
キリストを大祭司として受け入れることで、旧約聖書が定めた「レビ的祭司制度」は消滅する。
何故なら、地上の神殿に仕えているならば、神の国の民として、キリストという祭壇から「食べる権利」がないからである。
神学的には「信徒の普遍的祭司性」という言葉が存在する。キリストを信じた私たちには例外なく「普遍的祭司性」が与えられている。その根拠を聖書から見出すことはできるだろうか。
使徒ペテロによれば、キリストを信じる私たちは「王である祭司」だと断言されている。
キリストの聖なる職務は大祭司、王、預言者であるが、「王である祭司」とはどういう意味だろうか。
⑴キリストを王の中の王として信じて、「私の主、私の神」(ヨハネの福音書20章18節')と告白する者は、神の国において既に、キリストと一緒に神の右の座に着いていると認識する。
キリストと共に天上に座るという既成事実によって、世界を裁く権限が与えられている。
⑵キリストの死の犠牲を信仰の故に自分自身を一致させ、神に対して礼拝の中で、すべてを捧げること。
使徒ペテロは「聖なる祭司」について「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる」と言及している。「神に喜ばれる霊のいけにえ」とは、「キリストと一致して自分自身とその生き方を残らず捧げる」という意味である。
使徒パウロも同じことを言っている。
使徒パウロは「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています」(16節)と言い切ることができた。旧約聖書の「レビ的祭司制度」と、キリストを信じる者の「普遍的祭司性」はどう違うのだろうか。前者が律法であり、後者は福音であることを基本的な前提にするならば、これは容易に理解することができる。前者は諸々の儀式に関わる職務であり、後者はキリストから直接、教会に与えられた賜物なのである。
新約聖書において「祭司」という言葉が使われる時は殆ど必ず、上記の聖句のように、福音宣教と結合させられている。
故に、キリストを信じる者は全員、自分自身を捧げる献身者であり、一部の奉仕者たちだけが教会を担っているわけではない。
キリストを大祭司として頼りながら、福音を宣教するために伝道して、祈り続ける「聖なる祭司」として「祭司の務め」を私たちは真摯に果たすのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?