台風

台風10号がのろのろと日本列島を通過している。人がジョギングするくらいのペースらしい。偏西風に乗れないからこんなにのろのろなんだとか。ナニゴトも、乗っかれるものには乗っておいたそうが良いということだろうか。

台風のいる地域からずっと離れているけれど、うちの辺りも昨日から雨が凄く降った。

令和元年の台風で被災しているので、台風か来るたびに怯える。

とあるSNSを眺めていたら、「こんな日は家にこもって大雨の音を聴いていたほうが癒される」と何処かの誰かの投稿を見かけた。
雨音に癒されるなんて羨ましいなあ。私にとって雨音は、恐怖のBGMだ。
いや、そうではなくて。ひょっとすると投稿したこの人も実は雨で被災したことがあるのかもしれない。あえて、雨音に癒されようとすることで恐怖を和らげているのかもしれない。

令和元年のあの台風で被災している。あの台風と比べて、今回の台風は雨の量も少なそうだと、過小評価していたかもしれない。あの台風は、来る前からこちらの覚悟を試されているような、そんな雰囲気があった。

昨夜は、雨が降っていても、それほど気にせずにぐっすりと寝てしまった。すると、夜中にインターホンが鳴った。こんな時間に誰?と思っていたらお隣さんだった。
「川が氾濫しそうだから車を安全なところに移動したほうが良い」と知らせにきてくれたのだった。

夫が慌てて車を近隣の安全な場所に移動する。私は、一階に住む夫の母親の荷物を2階に上げておく。

令和元年のあの台風の時は、一階部分がほぼ浸水した。義母の荷物のほどんどが水に浸かった。大切にしていた着物もお気に入りの図録も趣味の毛糸も、捨てることになった。

さぞ、辛かっただろう。そして、なんて酷いことをしたのだろうと、私も心に傷を負っている。

あんな思いをもうしてほしくはないので、持って上げられるだけの荷物を2階へ上げた。

夫が車の移動から戻ってくる頃には、道路は冠水し、雨水は彼のくるぶしを越えていた。

「浸水する時はあっという間なのよ」と、義母が静かに言う。
令和のあの台風の時、義母はひとりでそれを目の当たりにしている。玄関まで水が来てしまったな、そろそろ2階へ避難かな、と考えていたらあれよと言う間に増水したと教えてくれた。

荷物の移動を終えてひとまず自分の布団へ戻るけれど、眠れない。
「どうか、どうか、これ以上は降らないでください。」
不安で、祈り続けるような夜になって眠れない。気を紛らわそうと聴くラジオからも時々、「番組の途中ですが」と前置きをして、台風の情報が伝えられる。やっぱり眠れない。

つい、スマホを開いてSNSを眺める。台風、川氾濫、警戒レベル、そんなワードでますます怖くなる。

やがて、サイレンの音が聞こえてきて、近くで止まる。どうやら、冠水した道路の雨水を除去するために来てくれた消防車だろうか。幾人かの男性の声と、ガコッガコッという音が響く。多分これで、一安心だろう。けれども結局、朝まで眠れなかった。

いつもの時間になって夫は仕事へ行った。
義母は、デーサービスへ行く日だ。おそらく彼女も眠れていないはずだから、今日はデーサービスを休む?と声をかけたけれど、彼女は行くと言った。

「このまま家の中で悶々としてても気分が滅入ってしまうわ。デーに行けば、他の人とおしゃべりできて気が晴れるもの」確かに、その通りだ。

義母も出かけてしまうと家にひとりになった。今日の仕事は夕方からだから少し寝ておこうと思って横になったが眠れなかった。

雨は降り続いている。雨音が強くなるたびに、スマホのお天気アプリを開く。雨雲レーダーでどの程度降るのか確認する。

「大丈夫、この強い降りは20分位で収まる。」と安心するために確認する。

何もしないでいると不安が募る。ドラマでも観ようか、とスマホの動画アプリを開くが、観ていても内容が頭に入ってこない。

不安は募るがお腹は空く。大丈夫だ。令和のあの台風の時は、食欲も湧かないほど不安だった。お腹が空くことを感じているなら、大丈夫だ。

冷蔵庫を覗いて、一昨日買ったごぼうとにんじんを取り出し、きんぴらごぼうを作る。ごぼうを袋から取り出すと土の匂いがした。丁寧に洗って細く刻む。繊維が柔らかそうな感触が包丁越しに感じる。にんじんも切って、油を敷いたフライパンで炒めて、調理する。砂糖は使わない。みりんと最後に入れるゴマの風味で甘さを作る。出来上がるとタッパーに入れて、冷ましておく。

それから、昨日買った鶏肉の下処理をする。一口大に切って、お酒を振りかけて冷蔵庫へ入れておく。

不安な気分の時は、動いていたほうが良い。そう言えば、と昔のことを思い出す。

ずっと昔。当時付き合っていた彼氏と同棲をしていた頃のこと。ある時、彼に他に好きな人ができて、朝方帰ってくることが多くなった。今夜もまた帰ってこない。きっとその彼女と会っているんだろうな、と眠れない夜を過ごしていた。不安と嫉妬と怒りとあとはどんな感情だっただろう。ただただ待っていると色んな感情に溺れそうになる。それが辛かったから、そんな夜に私はパンを焼いていた。生地をこねる力にきっと色んな感情を詰め込んでいたかもしれない。何故、パンを焼くだったのかは覚えていないのだけれど、当時の私はそうやって不安と闘ってきた。

そんなことを思い出していた。
あの頃は、こんなに苦しいと感じていたけれど、今思えば、たいしたことなかったかもしれない。懐かしい傷み。

一通り調理を終えてから昼ごはんを食べた。今作ったきんぴらごぼうとレンジで温めたごはんに生卵を落とした。

食べ終わる頃、義母がデーサービスから戻ってきた。
雨の止んでいるタイミングだったので、良かった。
少し空も明るくなってきただろうか、スズメの鳴く声もする。

鳥とか虫とか鳴いている時は、きっと大丈夫。

さて、仕事に行こう。
レインシューズに長い傘。念のため、替えの靴下とタオルも持参した。
今のところ雨はポツポツ程度。
けれど帰りはわからない。
備えあれば、憂なし。

電車の中から、河川が望める。
確かに川は増水している。
令和元年のあの台風の時は、これ以上だったのだから、やはりあれは桁外れだったのだ。

仕事を終えて、帰路につく。
雨が止んでいる。
予報をみればまだ降るのだろうか。

駅から自宅までいつもの遊歩道を歩く。虫の声がする。それから湿った緑の匂い。排水溝に溜まる落ち葉は、やはりこの辺も冠水していたのかもしれない。
雨はポツポツと静かに降っている。この分なら今夜は大丈夫だろう。

今夜はゆっくり眠る。


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