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桜狩り

 春の晴れた暖かな日。
 私は長い階段を上がり、ある神社に来た。近くの公園では花見客が集まっているものの、この神社では皆無に等しい。これほど美しい一本桜が咲いているというのに。
 人のいない静寂に包まれた境内で、私は参拝を済ませる。そして早速、鳥居のすぐそばに伸びる桜の元へと向かった。
「綺麗……」
 春の風が吹き、桜の花弁が散るその様は晴天の空によく映えた。
 しばらく桜の木を眺めて、私はその場に立ち尽くしていた。
 もうすぐ新学期がやって来る。一抹の高揚と不安が織り混ざり、新しい生活が来るという実感が未だ湧いてこない。気晴らし程度に歩いてきたが、そんな複雑な心境をも一掃されるほど、美しい桜を見ることができた。
 人混みの中で見る花よりも、一人で楽しむ花の方が楽しめると、私は思う。ついでに言うなら、満月の夜であればなおいい。
 何かの本で、桜の下には死体が埋まっていて、その血で紅く染まった花が咲き誇る……とかいう話を読んだことがある。古くから日本人の花として代表的な桜に、随分と怖い話ができたと少し引いたことがあった。
 そんな事を思い出しながら桜を満喫していると、石段を登ってきた男性がいた。始めは桜を見ていたが、神社の参拝もしっかりとしていたから、桜だけを見に、というわけではないのだろう。
 彼からすれば、私は桜の写真を撮るのに邪魔な赤の他人。
 桜吹雪を見られたことで満足の私は、彼が桜の近くに来る前に石段を降った。

 少しばかり急な石段を降りると、踏み切りの……正しくは、そのすぐ近くにある公園の方へと歩く人が多かった。
(ちょっと階段を登れば、綺麗な桜があるのにな)
 通り過ぎる石段の上に、桜があると知っている人はいないのかと思いながら、図書館に歩みを進めた。
 図書館までに通る道は、かなり閑散としていて、人通りはかなり少ない。
「あっ、渚」
 すると行きしなに、友人の茜さんに会った。
「偶然だねぇ〜」
「ですねぇ〜。茜さんも、図書館に?」
「そうそう。たまには本でも読もうかなと思ってさ」
「珍しい……」
 思わず目を見開いて茜さんを見た。彼女は普段、本という物に興味をまったく示さないのだ。
 流石に先輩に対して、微妙な顔をしたせいか茜さんは表情をヒクつかせる。
「いや、そんな顔しなくてもいいでしょう? そうだ、なんかオススメある? 読みやすいやつでよろしく」
「ジャンルとかって、どんなのがいいですかね。あと、本なら私じゃなくて時雨さんの方が読んでますよ」
「時雨さんは……その……ちょっと難しい本ばっかり読んでるから……」
「まぁ、そうですね」
 なぜか明後日の方向を見る茜さんの様子に、私は同意した。

 時雨さんとは、私たちが出会うキッカケを作ってくれたヒトだ。長い髪を後ろで軽く纏め、前髪で蒼眼である左眼を隠している。いつも深い蒼の羽織に、灰色の着流しの格好をして、微笑を浮かべる。かなりの引き篭もりで、外界に出る事がまったくない時雨さんのおつかいを、茜さんはよく頼まれている。それで難しい本でも頼まれたのだろう。

 私が時雨さんに会ったのは、まだ八歳だった。祖母の見舞いに行った時、病室で楽しそうに祖母と話していたのをよく覚えている。その時はあまり言葉を交わす事もなく別れてしまった。祖母から話は聞いていたのだが、五年後の祖母の葬式で会った時に、かつてと容姿が全く変わっていなかった事に驚いた。
 それからは、祖母の遺言もあって会いに行くことがかなり多くなった。
 茜さんともいろいろあったみたいだが、その辺りはまだ聞けていない。

 私の思考は、茜さんの一言で引き戻される。
「そうだ! 渚」
「なんですか?」
 何か企んでいそうな表情で、少し前を歩く茜さんは振り返った。
「時雨さんにさ、何かお土産買って行かない?」
「いいですねぇ、それ! どうせなら、桜餅とか」
「おっ、桜にかけて? いいじゃん、買っていこう」

 私たちは、時雨さんにいつも助けてもらっている。
 面倒くさがりで、不器用で、ほんの少しだけ寂しがり屋なヒト。あのヒトがいなければ、私も茜さんも死んでいたかもしれないのだ。おそらく死ぬまで頭が上がらないだろう。
 こんなに過ごしやすい日でも外に出てこない時雨さんに、あの桜を撮った写真でも送ろうかと考えると、優しく顔を綻ばせる時雨さんが浮かんだ。
 私の反応に喜びが滲み出ていたのか、茜さんが顔を覗き込んできた。
「随分とご機嫌だけど、どうしたの?」
「いえ……桜、とっても綺麗だなと思いまして」
「確かに……あのヒトも出てくれば、三人で花見にでも行けるのにね」
 茜さんは不満そうに、ぶすくれた表情を浮かべる。私よりも年上のはずの彼女の方が幼く見えて、私は宥めるように言った。
「時雨さんの庭にも、古い枝垂れ桜がありますし……一人で堪能してそうですけど」
「ありえる……よし、さっさと本を選んで桜餅買って行こう。すぐに行こう」
「ふふっ、そうですね〜」

 早歩きになる茜さんを追いかけて、私は枝垂れ桜の下に立つ時雨さんを想像した。


 桜吹雪の中、風に揺れるあのヒトの長い髪。深い蒼の羽織を纏う時雨さんは、さぞかし美しいだろう。
 茜さんと二人で笑いながら私は、枝垂れ桜を肴にでもして、一人花見酒でもしていそうな時雨さんを思い浮かべた。



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