最近は暑いです。 後編
※ 前作の続きです。後編のみでは、あまり楽しめないと思われます。
庭を歩いてきたのは、茜の祖母であり、私が関わる人間の一人・亜香里だった。私と違い、顔の皺が少しばかり目立ち、髪にも白髪が見えているが、まだまだ現役の祓い人として活躍している。
かなり険しい顔をしているが、私の姿を見ると、途端に笑顔になる。
『よっ、元気してた?』
『アンタよりかは、ね。そっちこそ、身体は?』
『最近の健康診断では、とりあえず大丈夫になってきた』
元気そうな亜香里だが、つい先日まで入院していたのだ。当然彼女の容姿には、ついこの間見た時よりも変化が見える。
やはり、人と鬼は違う。そう、見せつけられたような気がした。
『……身体、気をつけなよ。家族だっている。一人で勝手にできる身体じゃないんだから』
『ふふっ、分かってるさ。最近は大人しく書類仕事やってるし』
『なら、いい』
勝手に出てきた言葉にも、亜香里はあっけらかんと答える。まるで、何も気にするなと言われているよう。
『それで、ウチの放蕩孫娘は?』
『あっちで寝てるよ』
部屋の布団を示すと、茜がちょうど布団を被るところだった。
何も言わずとも、亜香里は部屋に上がって布団を剥ぎ取る。
『うぎゃっ!』
『あ〜か〜ね〜?』
『うぐっ、』
布団に入ったところで、怒った亜香里のねちっこい怒りを防げるとは到底思えない。
ため息を落とし、茜に微かな同情の視線を向けた。
その後間もなく、久々に亜香里の怒鳴り声が静かな屋敷に響き渡る。
『まったく、アンタって子は! この空間に迷い込んだんなら、連絡の一つもよこしなさい!』
『だってここ、電波も通じないような山でしょ!』
『はぁ? 何言ってんの! ここはスマホの電波が通じる特殊な場所です。そんな言い訳は通じません』
『嘘……そんなこと知らないし、聞いてない!』
茜も亜香里も、完全に蚊帳の外だったはずの私を振り返る。
『時雨、そこどうなの』
『必要ないかなと思って話してない。別に現代人なら、スマホくらい気にするでしょう? 見れば電波があるって分かるし』
『それ偏見です! 私の場合、しょっちゅう壊れるからそこまで気にしないの!』
必死に訴える茜が、少しかわいそうに見えてきた。やはり私は、子供に甘いのだろうか。
『……まあ、壊れるのは分かる。私も一年保ったら奇跡みたいなもんだったし』
『え……この流れで茜に着くの……?』
静かに衝撃を受ける亜香里には何も返さず、そのままそっぽを向いた。よし、と小声で聞こえた茜の声も、聞こえぬフリを通す。
亜香里は諦めたのか、深いため息をついた。
『はぁ……もういいや……茜、アンタは帰って説教。時雨、いろいろとありがとね。とりあえず、この子が無事でよかった』
亜香里の苦笑と感謝混じりの言葉。その言葉には、明らかな安堵が滲み出ていた。
だが、そんな亜香里と茜には、言いたいことがあった。
『別に。私は何もやってないよ。……ただ、亜香里。その子の考え方には、間違いがある。妖怪に鉢合わせしてすぐに攻撃するのは、感心しない』
首を傾げるのも無理はない。ここに入ってきた時のことは、何も話していないからだ。
『うん……? 鉢合わせして、攻撃……?』
『まぁね? 私と会って攻撃を仕掛けるのは、とても正しい判断だ。でも、依頼にない妖怪を無闇に祓うことは、とてもじゃないが正しいことだとは言えないんだよ』
『おい、ちょっと待て』
『何?』
亜香里は思い切り眉を顰める。
『この子が……時雨に、攻撃したの?』
『急に矢が飛んできたもんだから、驚いたものだよ。……さっきも言ったけど、判断自体は正しいんだ。でも、受けた依頼にない妖怪ならば、まず対話を持ちかけるのが基本だよ。安倍家ではそういうことは教えてないの?』
しばらく絶句していた亜香里だが、すぐに我に帰る。
『ウチのが本っっ当にごめん!』
『謝んなくていいよ。正しい判断だったって、言ったでしょう。ただ、もう少し対話の考えを持った方がいいって事ーー』
『いや、教育方針ってのが……その、亜夜と違ってて……』
亜香里はフイ、と明後日の方向を向いた。それを、かなり不思議そうに首を傾げて見つめる茜。
『……つくづく、父親似なんだな……あの子』
私も思わず、ため息をついてしまった。
茜の母親は、亜香里と違って几帳面である。それは、亜香里の旦那の性格が色濃いからだろう。
それはさておき。
茜は何の話をしているのか何も分からず、混乱しているようだった。
私は亜香里に物申すのを諦め、息を吐く。
『ならば。私から一言、言わせてもらう。いいかな、亜香里』
『親友の言葉なら、いくらでも』
すると亜香里は何の躊躇いもなく、私の隣に腰を下ろした。
視界の端で、茜が眉を顰めたのが分かった。私はそれを知らぬふりをして、話を始めた。
『ーーそれじゃあ、遠慮なく。……茜、君の考え方には誤解がある』
『ご、誤解……ですか?』
『あぁ。まず、妖や妖怪に出くわしてすぐに攻撃し祓う、という考え方と行動は改めた方がいい』
『……どういうことです? 妖は……妖怪は、人に害なす存在でしょう』
不機嫌になっていくのが見える。
固定観念というのは、存外恐ろしいものだ。
妖……もとい、妖怪。そう呼ばれる者の類いは、味方に引き込めれば、どんな人間よりも信頼できる存在となる。しかし味方にもできず敵対してしまえば、それは生死の境を彷徨うのと同じこと。
亜香里と違い、茜は規律に沿って生きるタイプなんだろう。革新的な考えにも、始めは難色を示すのかもしれない。
(祖母と孫で、こうも考え方が違うとは、ねぇ……)
私はちゃんと、茜と向き合った。
『茜。君は……私のような妖怪たちと、交流を持ったことがあるかい?』
『……い、』
『今は、計算外だよ』
『……』
言葉を交わす。それは、時に誰かの背を押すこともあれば、時に誰かに傷を残す。
この世の全ては、そういうものだ。対話もまたしかり。
人も妖怪も同じだ。力を持つか持たないか、それだけの差。だというのに、今でも迫害と偏見は残る。
茜の考え方にも一理ある。だが、その先を考えなければならないのだ。
私は茜に、かつて鬼となった時に思い知ったこと、気づいたことを話すことにした。
『私は鬼だ。だが、彼女を通して祓い屋の仕事も請け負っている。……そこでだ。茜。君は人の世に紛れて暮らす鬼や妖怪たちを、どう考える?』
『どう……? そう、ですね……人の領域に踏み込みすぎていないのなら、見逃します』
『そうじゃない。見逃すか否かの問題ではないよ。そういった者が、君の身近にいると考えてくれ。もし、心の底から大切に思う人が、自分は人ではないと告白した時。君はどう思う?』
『そ、れは……』
迷いながら、茜はゆっくりと口を開いた。
『……私、は……家の方針に、従う、だけで、』
『だから違う。君自身の考えを……答えを聞いている』
『……』
途端に黙りこくる茜。さすがにマズイと判断したのか、亜香里が口を挟んできた。
『まだ答えなんて、出せないんじゃない? 私や時雨と、あの子は違う。アンタの場合は、中学の頃から明確な指標を持ってたけど……茜はまだ、家に偏った考え方しかできてないんだ。……まぁ。いつか、答えは出すだろうけど』
そんな彼女の言葉に、茜は肩をビクッと揺らして反応した。それは僅かに、恐れも混じっているように思える。
『……茜。人に紛れて暮らす者たちは、みんな祓い屋に目をつけられないよう、隠れるように暮らしている。そうでない者もいるけど、大半がそうだ。常に敵対するようでは、今度は人の世に迷惑をかけることになるかもしれないんだ。……そういう時のために、考えておいた方がいいと思うよ』
『……』
今はまだ、何も分からなくてもいい。ただ、ちゃんと分別のある人間になってほしい。それだけだ。
『さて、私の小言はお終い。迎えも来たんだし、さっさと帰りな』
半ば強引に話を終わらせ、二人の見送りのため立ち上がった。
『そうだね。礼はまた今度、来たときに。茜、立てる? 帰るよ。お母さんも、心配してる』
『……はい。そういえば、お祖母ちゃん』
『ん、何?』
布団から出て、着替えを始めながら茜はとんでもないことを言い出した。
『二人って、ただの古馴染みで商売相手なんでしょ? その……なんで、親友なんて……』
『何言ってるの? 私たちは幼馴染で商売相手で大親友だよ? 自分で言うのもなんだけど』
とうとう言いやがったな、こいつ。と、思わず出かけた言葉を飲み込んだ。
せっかく、気を使ってただの商売相手と言ったというのに……。
私は何も言及されないよう、そっと、顔を背けた。
『はぁ⁈ 何言ってんの、お祖母ちゃん!! 鬼と親友だなんてーー』
『鬼だから、何だい? 鬼なら親交を深めてはいけない? そのような規則も掟もないよ?』
『だ、だけど……鬼と親友だなんて、祓い屋としてーー』
『あー……こういうことか。偏った思考ってのは』
茜は激しく動揺し、表情は驚愕と失望に染まっている。何かを呟いているが、よく聞こえない。
茜は顔を上げて、訴える。
『っ、だって! ありえないでしょ⁈ 人と妖怪は相入れない、そう教えてくれたのはお祖母ちゃんとお母さんなのに!』
『茜、落ち着きなさい。たしかに私は、人と妖怪は相入れないと教えた。お母さんもそう言ったんだろう。だがね、それはすべての妖怪、というわけではないよ。八割……いや、七割はそうだと思う。でも、残りの三割は違う』
『はぁ……?』
こういう時。新たな考えを受け入れられるようにならなければ、祓い屋を取りまとめる大家の当主にはなれない。
仕方なく、私は口を挟んだ。
『茜。祓い屋の仕事は、妖怪たちを差別することではない』
『鬼であるあなたが、何を言っているんです』
『ははっ、確かにそうだ。君からすれば、私はただの厄介者でしかない。祖母に付け入る害獣、とでも思っているんだろう?』
『……』
黙るということは、肯定だと取る妖怪が大半だとすら知らないのだろうか。それともただ、返す言葉もないだけか。
いずれにせよ、言いたいことはある。
何か言おうとする亜香里を制し、続けた。
『確かに私は、鬼だ。何十年も前に……私が高校の頃に、人を捨てた。それは私の本意ではなかったけど、あの時の私にとっては、人であり続けることができなかった。元から人に期待するようなことはなかったが、今度はそれをさらに加速させた。……元・純粋な祓い屋としては、人を捨てるなぞ嫌だった。だが……』
思わず言い淀んだのは、躊躇したからだ。既に亜香里に失礼なことを言っているようなものなのに、この先は人という存在への失望を語るようなもの。
一呼吸置いて、私は話を続けた。
『あの時、私はもう祓い屋ではなかった。選択の自由はあったけれど、私は祓い屋以外の生き方を知らなかった。君も私と同じだ。私は鬼となっても、しばらくは人に化けて生活してたし、人として大学にも行っていた。……でも段々と、周りと自分の容姿に差が出てきた』
皆が成長し、大人びていくのに、私は何も変わらない。おそらく、あの時の置いていかれるような疎外感は、忘れられない。
これ以上、何も言いたくはない。だが、口は勝手に言葉を紡ぐ。
『それが嫌になってしまってね。それからは、こうしてここに引き篭もるようになったの。……君には、私みたいな奴の気持ちなぞ、分からないままでいい。と思っていたんだけど……でも、安倍茜。君が望むなら、忠告しておく』
『忠、告……』
『時雨。それ以上は言わなくていい』
亜香里の声がする。
『鬼と人が関わること……ひいては、妖怪と人が関わること……それは、祓い屋という仕事の本質だ。依頼主の依頼をこなす、妖を祓う、全て交流のうちに入る』
『時雨!』
口は言うことを聞かず、口走ることをやめない。
『祓い屋は常に、自分を斬り捨てて進んでいく職だ。守りたいもの、守るべきもの、それら全てを守り抜くのが君たちの……過去の私の職。ついでに言うと、私たち鬼や妖怪にとってはね、祓い屋はこの世で一番可哀想な仕事だよ』
言いたいことを言い終えてから、なんとか一息つく。
亜香里は悲しそうに俯き、茜は呆然と立ち尽くしている。
『……人と妖の、命のやり取りの、その中間に立つ私からすれば……祓い屋なんて碌な仕事じゃない。……まぁ、年寄りの戯言だ。聞き流しても構わないよ』
それきり、私は茜の表情を見ることはなかった。
そのあとは亜香里と少し話をして、そのまま二人を見送ったのだった。
「え……それから、何も言わずに別れたんですか?」
「うん。何も言わなかったよ」
「なのに、なんで今の茜さんに?」
「それから何度もここに来るようになったの。それで、今の茜がいるってこと」
私は時雨さんから、話の全貌を聞き終えた。
その語り口は、時雨さんがどれだけ昔の出来事を大切にしているのかがよく分かる。
「あのー……茜さん? いつまでグチグチ言ってるんです?」
「だって……自分の黒歴史をベラベラと……聞きたくないのに……」
もはや部屋の隅っこで壁に向かい、膝を抱える茜さん。この少しの間で、随分と荒れたものだ。
「ま、茜も経験が足りなかったってことさ。渚。君もいろいろな物を見て調べて、見聞を広めるといい。必ず、何かには役立つからね」
「いい話でまとめるな!」
茜さんはちゃんとツッコミを入れた。
今の時雨さんと茜さんの出会い方は、正直かなり酷いと思う。それでも、今のこの二人が幸せなら、それでいいだろう。
なんやかんやと文句を言い合う二人を見て、思わず私は笑みが溢れた。
しばらくして、私は茜の世話を渚に任せて外に出た。
煙管に火をつけ、ゆっくりと煙を吸う。そして、庭に向かって煙を吐いた。
渚に話した茜との出会いは、決して間違いではない。初めて会ったときのことを話しただけだ。
(あの子が素直になって、ここに来るようになったのって、いつからーー)
ふと、あの子が大泣きしてここに来た時を思い出した。
「……そうか」
茜がここで、初めて感情をあらわにした瞬間。それは、彼女の祖母が亡くなった時だった。
「月日の流れは……早いな……」
自分が人ではないのだと、思い知らされるようだ。
部屋で未だに騒ぐ二人の姿を思い出すと、まだまだ若いなと笑みが溢れる。
「あの二人が独り立ちするまでは、頑張らないとねぇ」
今は亡き二人の友人が遺したものを守ることが、永きを生きる私の役目なのだろう。
「時雨さーん! 茜さんがいじめてくる〜!」
「ちょ、茜!? 時雨さん。違うよ? 違うから!」
部屋から響く騒がしい声は、時間や世の中に取り残された私を、一気に引っ張り上げてくれる。
「今度は何ー?」
煙管を縁側の盆に起き、二人のもとへと戻る。
これからも、このゆったりとした時間が続きますように。
これからも、あの二人と共にいられますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?