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Halloween World 其の陸

 私は袖を捲り、晒さらした左腕をナイフで切り裂いた。赤い鮮血が傷口から滑り落ち、地面に小さな血染みを作る。
 すると茉莉は、投げようとしていたらしい木を手放してうめき出した。
「茉莉。血が飲みたいんだろう?」
「ゔぅ、……あ゛、あ゛ぅ……」
「まーつり。良質な生き血がここにあるよ」
 私が一歩近づくと、茉莉が一歩退がる。それが、幾度か繰り返された。
「茉莉。私は大丈夫だよ」
「はぁっ、あぅ、あ゛が……はっ、」
「飲んで」
 とにかく、近づかないことには何もできない。もはや強引に詰め寄り、茉莉の後退速度よりも早く進む。
「一口だけでいい。私からの頼みだ」
「はぁっ、はあっ、はっ、あ゛……」
 もう手が届くところまで近づくと、彼女が自分の指を噛んでいるのが分かった。まるでその行動が、癖になっているかのように。
 咄嗟に手を掴んでやめさせると、その赤い瞳が激しく揺れていた。それは酷い動揺と、恐怖。そして、自我が戻る予兆。
 私は彼女の腕を掴んだのをいいことに、勢いをつけて押し倒し、押さえ込む。
「飲んでくれ。一滴でもいいんだ!」
 希うように、泣きそうになりながら。
「戻って来てくれ……頼むから……」
 その言葉には、自分でも不思議に思うくらい、熱がこもっていた。
 私を泣きながら見つめるだけだった茉莉は、初めてまともな言葉を話した。
「だ、だめっ、だ、から……」
「……はぁ?」
「離して、くれ……もう、ダメだから……」
「何言ってんの……? 私はもう、君を諦める気はない! 早く飲まないと、無理やり飲ませるよ」
「だ、から……私はっ、ダメなんだよ……もう誰も、傷つけたくないんだ!」
「傷つかない! 私も、陽真理も、アラン君も、誰も君のことを嫌うなんてあり得ない。絶対に」
「で、も……絶対なんて、ない……だろ……」
 腕で顔を覆い、苦痛から目を逸らすようなその動作。それは茉莉が、辛い時にする行動だった。
 もう、見ていられなかった。胸ぐらを掴んで、思いっ切り揺さぶる。
「君の過去は知らない。どんなことをされたのかなんて、分からない。いつか、話してくれると信じてる。でも……今を見てほしい。過去に何があっても、今の君には私たちがいるだろう……?」
 もう、彼女の顔を見ることすら辛い。私まで泣けてきた。
 その時。
「……ま、な」
 名前を、言ってくれた。
「茉莉、」
「離れ、てよ……」
 なのに、まだこの子は言うのか。
「嫌だ。絶対に離れない」
 茉莉の嗚咽が激しくなり、彼女が腕の傷をわざと広げているのが見えた。
「広げちゃマズいでしょ! やめな」
「私、からっ、離れてくれ……早く、しないと……君を、殺してしまう……」
 腕の間から覗いた彼女のは、ただただ飢えていた。いや、渇いていたと言った方がいいのかもしれない。
 しかしその瞳は、血の如し赤から徐々に元のオッドアイに戻ろうとしている。
 一縷の希望が見えた。
「茉莉。飲んでくれないとこの先一生、君と絶交してもいいんだよ。私が嫌いなら、それでもいい……また・・、一人になってもいいならね」
「構わない!! 君たちを、守れる、なら……っ、私は……一人になっても、いいんだ」
「は、?」
 この子は私たちに会うまで、一体どんな扱いを受けて来たのだろうか。ここまで、希望を捨てようとするなんて、普通なら有り得ない。
 ふと私は、こんなやり取りが必要なのか疑問に思って来た。
「……もう、いいや」
 顔を覆う腕をなんとかこじ開け、茉莉の口に血を一滴垂らした。
「なっ、」
「君がどうこう言おうと、もうどうでもいいや。私の好きにするよ」
(そうだ。初めから、こうすればよかったんだよね)
 茉莉は何かのスイッチが入ったかのように、うめき出した。彼女の手を離すと、すぐに上下は逆転して茉莉に押し倒される。そして勢いで、噛みつかれる。
(茉莉の泣き顔なんて、見たくなかったんだけど……)
 いくら嘆いたとて、泣かせたのは自分のせいだ。兎にも角にも、正気に戻して拘束してでも連れ帰らなければ。
 私はまだ身体に力が入るうちに、茉莉の背に手を回した。この子を、繋ぎ止めるために。
 珍しく、長い吸血だった。そのうち私の意識も揺れてきて、茉莉の様子を見ることができなくなってきた。
 ほぼ無意識のうちに彼女の背を軽く叩くと、恐る恐る、といった感じで吸血が止まった。
「……マナ、」
 か細い声で私の名を呼んだ茉莉は、肩に顔をうずめたまま微動だにしない。
「……茉莉? そろそろ重いんだけど」
「……なぜ助けた」
「はぁ?」
 やっと喋ったと思ったら、今度は唐突な疑問をぶつけられた。
 そのままの勢いで、茉莉は続けた。
「どうして、こんな傷だらけになってまで、私を救おうと躍起になるんだ」
「どうしてって……大親友だから? あと、君がいないと領地の統治者がいなくなって困る」
 なんとか意識を保とうと、私は掌をぐっ、ぱっ、と動かす。
 何を言っても、茉莉は負の思考でしか考えられていない。その声は、沈んだままだった。
「……どちらも代わりはいるじゃないか。こんな吸血鬼よりも、優秀な者がいるだろう」
「代わりなんて、いないよ。君に代わりなんていない。いるわけがない。私も陽真理もアラン君も、君のことが大切だから、仕事を分担して私がここに来ている」
「それ、は……私が、居ていいっていう、理由にはならない。私が私として生存していていい、なんて理由は、ない」
 その一言に、酷く腹が立った。
「あのさ、茉莉。このやりとり、何回目だと思ってんの? 飽きたんだけど」
「なっ、」
「あとさ、いい加減退いてくれない? 重い。意外と筋肉あるって自覚しなよ」
「う、うるさい! そん――」
「君のネガティブ思考は重すぎ。いろんなものが重いの。時にはそれがいい方に転がることもあるけど、大体は悪い方にしか転がらない。そこんとこ、ちゃんと分かっててよ」
「う……」
 押している。いつも押されっぱなしの私が、あの茉莉を押している。
 なんとなくいい気分になって、得意げに笑った。
「君はもう少し、自分への評価を上げた方がいい。それと……私もそろそろ限界だから……アラン君にでも、連絡、を……」
「マナ?」
「眠い……だけ……だか、ら……」
「しっかりしろ!」
 
 そうして私は疲労と貧血により、意識を早々に手放したのだった。

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