漁師は環境の守り手
水質の見張り役
海、特に湾や入り江の入り口、湾口が狭い場合、海流の流れが滞留して水質が悪化するケースがある。東京湾を広義にとらえる場合、千葉県の房総半島の突端、館山市の洲の崎灯台と、神奈川県三浦市の剣先灯台を結ぶ線が湾口となる。これより袋状に湾奥の東京方面に伸びる湾を東京湾と呼んでいる。湾口の近くには太平洋の黒潮が流れ、海水は本来なら青々としているはずだ。しかし、釣り番組で湾口を見ると2022年夏は海水は茶色に濁っていた。「東京湾は随分、汚れてしまった」とまぶたが濡れた。
千葉県富津市の富津岬と横須賀市の観音崎を結ぶ東京湾の内湾ではもっと水が悪化しているのではないかと心配した。内湾は1950年代と比べるとかなり狭くなった。1960年代に入って内湾各地で埋立造成が急速に進み、自然海浜が残っていた千葉県側も急ピッチで埋立が進んだ。晴れた日には東京や横浜の高層ビル群の姿が分かるように見て取れる。
子供のころには遠かった向う岸が、1980年代に入るとすぐ手にとるような近さになった。快晴の日、君津市の人見神社から展望すると浦安市のディズニーランドも船橋、習志野方面の良く見える。子どものころは遠いと思ったが、こんなに近いとは思わなかった。埋立で急速に東京湾が縮んでしまった。
台湾ガザミ
港は横浜、川崎、東京港だけではない。千葉県側も船橋港、千葉港、市原港、木更津港、人見神社の下手には日本製鉄の港もある。それぞれの港には浅海を浚渫した航路があり、工場地帯の沖合には何万トンというタンカー、LNG液化天然ガスや鉱石の運搬船が停泊する。
内湾の汚染が進むと同時に内湾の採捕される魚貝類にも変化があった。刺し網や底引き網で、ガザミ(通称ワタリガニ)よりサイズが少し大型で、ツメの親指が太い「台湾ガザミ」が取れるようになった。顕著な変化だった。地球温暖化の影響、海水温の上昇という影響もあるかもしれないが、日鉄君津工場の岸壁に接岸する石炭や鉄鉱石の大型運搬船が幼生を連れてきたか、幼生がバラスト水に交じっていて吐き出されたかして大きくなった可能性が大きいようだ。
海の監視人
漁師は海の監視人である。なぜなら、漁になじまない風雨の強いシケや潮時の悪い潮間(しょま)以外、ほとんど毎日、漁に出て海を見つめ海況を実感しているからだ。漁師は常に口数が少ない。シケの日など、一カ所に漁師仲間が大勢集まって茶飲み話をしても、個人的な漁の話は一切しない。恰好の漁場を教えてしまうことになるかもしれないし、何らかの漁の多寡のヒントを与えることを警戒して話さないのかもしれなかった。
漁師が一人切りの時、海の様子を聞くと重い口を開いてくれるときもあった。高校生のころ、古老の漁師からいろいろなことを聞きかじった。雲の形状、流れ方など天気の見方、網の張り方、さまざまな漁のやりかたなどを教わった。特に海況の変化については今昔の様子を聞いた。昭和初期から1950年代半ばごろまでの内湾について聞きまくった、「昔はもっと水がきれいだった」「昔の冬はもっと寒かった」程度で、それ以上突っ込みようのない話だった。
1960年代に入ると内湾では埋立が急速に進んで、水質汚染、水質汚濁も顕著になった。ノリの養殖は海が富栄養化した状態の方が収穫が多いとされている。江戸時代、ノリのソダヒビ養殖が始まった大森、品川地域は、内湾への流入河川として大川、浅草川(隅田川)や多摩川などが注ぎ、湾に河川から運び込まれた窒素、リンなど有機化合物を含んだ生活雑排水が流れ込んでいた。これがノリを育てるのに役立った。
それにしても汚れ方はひどいと思った。2020年に開幕の東京オリンピック・パラリンピックで、男女トライアスロンの水泳競技会場は東京・お台場の海だった。ヨット競技会場もお台場だった。水泳競技のTV中継を見ていると、海水が汚れた色の茶色だった。水質検査でも大腸菌の数が基準よりも多かった。都内23区の人口約1000万人の下水が処理されたとはいえ湾に放流されているためだ。
胸の内は
内湾は1960年代半ばから漁師が「苦潮」(にがしょ)と呼ぶ赤潮、青潮が発生した。季節を問わず通年の発生だった。横浜、川崎、東京、船橋、千葉と港が連続し、港のコンビナートの石油精製工場などに陸揚げする大型船の航路、停泊地があった。航路、停泊地は干潟の埋め立て地の沖合を深さ20~30㍍ほどに浚渫した。海底は海盆のようにへこみ、ここが極度に富栄養化した。
極度の富栄養化で海盆の底の方は酸素が行き渡らない貧酸素水塊(すいかい)となった。この水塊が強風が吹き荒れると表層、上層の水が動くのにつれて浮上し、湾内を漂う。塊(塊)の状態で漂流するので、塊が流れてきた場所の魚介類のほとんどは酸欠で死滅する。回遊魚なら逃げ足も速いがカレイ、ヒラメ類、マゴチなど底生魚が逃げられずに死ぬしかない。
漁師たちは日常的にこうした情景を目の当たりにしてきた。干潟では酸欠で瀕死状態のアカエイが潮が引いて干潟が干出しても動かなかった。驚きと同時に知りえたことは、干潟の代表的な二枚貝アサリが青潮でも生き延びたことだった。ハマグリは別の項でもふれたが、1960年代後半、種を取る養貝場のハマグリが青潮に弱く一晩で大量に一斉に逃亡した。
この経験談を漁師たちに話した時、信じがたいように「フーン」と言うだけで悲しそうな顔をしてうなだれてしまった。だれも信用してくれなかった。事実だと分かっていても、信用しがたい悲しい現実だったのかもしれない。日々の海況について漁師の口が重たいのは、自分の口から海の汚れを話したくないのだ。自分の口から「汚れたこの海ではもう飯が食えない」と表立って言いたくない、自分の跡継ぎの息子に「もう海で働くのは無理だ」と話したくないからで、悲しい眼差しを浮かべた胸奥を推察した。
おとなし過ぎないか
三河湾の三重県四日市市にある大規模石油コンビナート。1950年代半ばから代表的な工業都市として発展してきたが、大気汚染や海の水質汚濁など公害が発生した。海の異変に漁師たちは気付いていたが、身内など親類、知り合いの子弟が工場に勤めていることに配慮してか、汚濁について声を上げることはなかった。熊本県水俣市の漁師と同じで、水俣病の発生と似た状況だった。港に排水を垂れ流していた複数の汚染源の企業を告発したのは海上保安庁四日市海上保安部の課長だった田尻宗昭さん。公害を刑事事件として企業責任を追及した公害Gメンだった。
内湾で水銀・PCB汚染魚騒ぎが起き、どんな魚も市場に売れなくなった1970年代初めごろ、若手漁師たちがコンビナート工場の排水口に土嚢(どのう)を投げ入れ、千葉県庁の正面玄関に大樽に入ったイワシなどの魚をぶちまけた事件があった。数人の若者が威力業務妨害罪で逮捕されたが、実に漁師らしい振る舞いだったと喝采した記憶がある。2011年3月の東日本大震災の大津波による東京電力福島第一原発事故で流出した放射性物質によって漁場の海を汚染された福島県漁民のおとなしさの理由は今でも理解できない。採取した魚が売れない、市場で買いたたかれる無念な思いをどこにぶつけたのだろうかと思ってきた。