北野天満宮の古井戸2

天満宮の総本社


 北野天満宮は言わずと知れた学問の神様とあがめられる菅原道真を祀る神社。神社のホームページや社史、社伝によると、創建は947(天暦元)年。道真の乳母の多治比文子らがこの地に社殿を建てて道真を祀ったのが起源とされている。全国に約1万2000社あるとされる天満宮、天神さんの総本社。

北野天満宮はいつも中高生の参拝でにぎわう

京都市内だけも道真ゆかりの社として、下京区にある菅原邸跡という菅大臣神社、祇園祭りで道真の木像を乗せた山車を氏子たちが肩で担ぐ「油天神山の山車」を出す火尊天満宮(下京区風早町)、中京区の菅原院天満宮は道真誕生の際、産湯に使ったという井戸が烏丸通り沿いの境内にある。
 
 

道真公、北野天満宮ゆかりの神社を紹介する


火尊天満宮


産湯といわれる井戸水は飲める。眼病に良いとされる「金龍水」がある上京区の水火天満宮なども有名だ。水火天満宮は923(延長元)年、醍醐天皇の勅願で建立された。

 


火尊天満宮の社殿。うっかりすると通り過ぎるほどこじんまりした社殿だ


 

まず七保の社を創祀


一之保天満宮


 道真が太宰府で死去した後、京から大宰府に赴き付き従った人たちが京に帰り、右京の地に7カ所の御供所を設けた。「北野七保」(きたのしちほ)と呼ばれる。京で最初の天満宮とされているのが「一之保社・安楽寺天満宮」(上京区御前通西裏上ノ下立売上る北町)=写真下。西大通りと妙心寺道の交差点から東に入る神宮道にあり、御所の西側・西ノ京の中心部。
 


文子天満宮旧跡の一之保社

神屋川を渡り、道真の乳母とされる文子さんの住居跡と思われる場所に文子天
満宮の旧跡があり、さらに進むと近くに一之保社がある。
一之社は北野天満宮の境外末社。安楽寺とは神社に付属して設けられた神宮寺。905(延喜5)年の創始とされている。由緒からして末社扱いではなく、もっと縁の濃い摂社扱いがふさわしいと思った。

【 一之保天満宮 】
一時、1873(明治6)年に北野天満宮境内に移されたが、その後再び、元の地に分祀された。「保」とは京の律令制の行政単位。「保社」のうち北野天満宮に移転したほか、廃社となった保社もある。安楽寺は明治初めの神仏分離令による廃仏毀釈で廃寺となった。
 島津製作所を創業した島津源蔵さんが円町で作った電球が大当たりしたご利益に感謝して、この地に稲荷社を祀ったことでも知られる。
 文子天満宮は、平安時代、道真の乳母だった多治比文子が道真を祀るため、自宅のあった西京七条二坊に設けた祠が最初。次に文子天満宮の旧跡に移され、1873(明治6)年に北野天満宮の境内に移さられた。旧跡は北野天満宮の創祀のすぐ後をみられる。境内跡に古井戸がある。旧跡は北野天満宮の神輿が氏子地域を巡る巡行の際の御旅所となっている。神輿は次に四之保社安楽寺の御旅所を回る。

 北区平野宮本町にある四之保社は西大通りと妙心寺道の交差点を天神御旅商店会を入る市立北野中学校の裏手になる中京区西ノ京中保町50にある。当初、新長谷寺が神宮司となり、神社を管掌した。道真の自作と伝えられる観音像を祀ったとされるが、江戸時代の1740(元文5)年に廃社となった。現在は北野天満宮の神輿が休憩する御旅所となっている。病気平癒にご利益があるとして信仰を集めた「威徳水」と呼ばれたご神水の井戸跡が残されている。この井戸は京でぜひ再興されたいと思う古井戸の1つだ。
 由緒書きによると、江戸時代は広い社域だった。しかし、明治政府の上知令(上地令、あげちれい、土地没収命令のこと)で社域の多くを失い、現在の社域になったという。

威徳水の井戸跡がある四之保社の旧跡


道真は宇多天皇、その息子の醍醐天皇に仕え、天皇家と姻戚関係を築き絶大な権力をふるった藤原家が権勢を張るなかで藤原不比等を父に持つ藤原房前を租とする藤原北家出身の藤原時平は左大臣に就いた。道真も899(昌泰2)年に右大臣に昇進した。しかし、「宇多天皇を欺いた」「醍醐天皇を廃位して息子の斉世親王を皇位に就けようとした」との疑いをかけられ、九州・太宰府に左遷された。道真と出世を争った時平の陰謀という説もあるが、道真の昇進に反感をもった有力貴族の讒言(ざんげん)による失脚とされている。 
 
 

怨霊信仰の一大拠点

死罪に等しいゆえに怨霊


 日本の神様の大半は祟り神と言っても過言でない。決してありがたいご利益をたまわる神ではない。どうぞ病やケガなど不浄にたたられませんように、平穏無事な日々をお願しますとお祈りする神様だ。触らぬ神様なのだ。
 菅原道真は左遷から逝去まで約2年間、俸給はなく、衣食住に困窮し死罪に等しい生き様を強いられたという。左遷されてから2年後の903(延喜3)年2月、大宰府で死去した。59歳だった。
 道真が左遷される以前、800(延暦19)年や864(貞観6)年に富士山が大噴火。827(天長4)年に京で大地震、869(貞観11)年に三陸大津波、887(仁和3)年にはマグニチュード8クラスの東南海地震「仁和地震」が起きた。平安時代は天変地異や疫病の流行が相次いだ。
 特に北野天満宮の創建のやや前ごろ、938(承平6)年に京で大地震が起き、暴風雨で鴨川が氾濫した。939年には関東で平将門、九州で藤原純友が相次いで乱をおこし、治世もままならなかった。944(天慶7)年と947(天暦2)年に大暴風雨が京を襲い、疱瘡(ほうそう)など疫病が大流行した。空也が念仏を唱え、京の市中の平穏を願って疱瘡の患者に手当てを施したしたとされるのもこのころだ。
 道真の没後、909(延喜9)年に権勢を誇った藤原時平が病死した、913(延喜13)年には右大臣の源光が狩りをしていて泥沼で溺死、923(延喜23)年には醍醐天皇の皇子で皇太子だった保明親王が亡くなった。930(延長8)年に起きた御所・清涼殿への落雷では、ちょうど朝廷の重臣が会議する朝議中だったこともあって朝廷の要人に多くの死傷者があったという。醍醐天皇も病気となり、落雷事故の3カ月後に崩御した。

 祟り神は怖い

 医学や病理学などの科学はなく、占いで病の原因は推測し、薬といえば漢方ぐらい。奈良・平安時代には疱瘡など流行病が横行し、地震や台風など天変地異も相次いだ。原因も理由もわからないから、非業の死を遂げた人の怨念、怨霊の仕業と畏怖した。不遇をかこった誰かの祟りという怨霊思想が流行した。北野天満宮も道真の霊を鎮めるために創祀された怨霊信仰の一大拠点だ。
 前にも触れたが、日本の祭神はもともと祟り神が多い。祟りを鎮め、悪霊が跋扈(ばっこ)して悪さをしないように恭しくお祀りした。祟り神、悪霊神は日本の神々の原型といっていい。
余談だが、道真のほかにも怨霊を恐れられた人物がいる。平安京に遷都した桓武天皇の実弟・早良親王だ。藤原宇合(うまかい)の流れをくむ藤原式家の藤原種継の暗殺にかかわったという疑いを掛けられた。種継はまず平安京遷都の前、奈良から長岡京に遷都する際の長岡京造営の責任者だった。種継は淡路島に流される途中、河内国(大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。桓武天皇は疫病の流行や洪水の発生が怨霊のせいとして800(延暦19)年、早良親王の怨霊におののき、祟道天皇と追称し、祟道神社に祀った。
道真の怨霊もしつこい。清涼殿落雷事故も道真の祟りとされ、以来、道真が雷となって怒ったといわれ、雷公とも呼ばれるようになった。947(天歴元)年に北野社に祀られた後、朝廷はさらに霊を慰めるため、993(正暦4)年には正一位左大臣、次いで太政大臣の位を贈った。
 

現役の井戸

松向軒の井戸


細川幽斎(藤孝、忠興の父)が大茶湯で使ったとされる松向軒の井戸


 現役として水が出ているのは手水場2カ所、お茶席用の名月舎の井戸の計3カ所がある。大茶湯の際に使われ、のちに復元された茶室「松向軒」の古井戸や、かつて神宮寺だった東向観音寺の岩雲弁財天の古井戸は神社の管轄外だが、これらの井戸を含めると湧水箇所約10カ所の井戸が現存する。現役の古井戸のうち1カ所は少なくとも創建時の手水場として、御神水用の井戸として少なくとも創建時に設けられた井戸とみられる古井戸もある。約10カ所の井戸のうち、大茶湯のころに存在した可能性がある井戸は不明だが、いづれにしても大茶湯に使われたという太閤井戸と同じ水源、水脈の古井戸が今も残ることはとても貴重だ。

岩雲弁財天の古井戸



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