消えた屋敷林

干潟の伝統業法


内房の漁村


 
東京湾の内房にある半農半漁村集落の家々の多くは主にマテバシイ(俗称トウジイ)とシラカシなどカシ類の生垣を持っていた。市原市の五井、椎津から袖ヶ浦市の袖ケ浦、奈良輪、木更津市の牛込、金田、久津間、江川、君津市、富津市に至る干潟でのノリ養殖が盛んだった漁村では特に垣根・生垣用に植栽された。防風・防火林として屋敷の周りに植栽してまるで屋敷林のような様相だった。

トウジイの生垣


トウジイと樫(カシ)の木は農漁業に必要な資材だった。特にトウジイは枝をノリ養殖のソダヒビとして利用し、ノリ養殖が支柱柵に代わり、支柱柵つくりでは孟宗竹と合わせて柵の棒にした。
また地先漁業権を持つ集落ごとに舟だまりを設置するとき、防波・防風用として舟だまりの周りを囲うための柵作りに利用した。さらに収穫後の稲や漁網なども干すハザカケ用の支柱にしたりして利用した。
内房の漁村の多くは半農半漁で、水田が10反歩(10アール)未満の飯米農家は勢い専業漁家化した。古くから土地に居ついた家々は、20~50反歩程度の水田を所有していて漁業の収入がなくても農業だけで生活できないことはなかった。トウジイと樫類は農業用資材としての利用価値が広かった。
稲刈りをした後、穂のついた稲ワラ束を天日干しするハザカケの脚を作るのにトウジイと樫類の木を使った。トウジイの太さ3,4㌢の枝を長さ3㍍ほどに伐採して、トウジを✖印状にして✖印の箇所を荒縄できつく縛った。ハザカケの両端と中央の2、3カ所にスギ丸太を使った、このハザカケに孟宗竹を横に渡した。この孟宗竹を支えるためにトウジイの支えを作った。
また、畑にはナスなど風に弱い作物やサヤインゲンなどツル状に伸びる野菜のためにトウジイの柵(たな)も設けた。風よけやツルをはわせる棚には細い枝で十分だった。古材のトウジイは焚火(たきび)用に利用された。
 

農漁業の資材に


漁業用には3種類の利用法があった、一つは舟だまりの風波よけ。
舟揚げ場の周りをある程度の間隔を空けて囲むように高さ3,4㍍の囲い柵(さく)を作って舟だまりを設けた。柵には杉丸太を使い、深く埋め込んで支柱にした。この間に孟宗竹や葉のついたままのトウジイを埋め込んだ。この柵の中に小舟を係留した。
二つ目はノリの支柱柵(さく)を作るのに柵の支柱用に使った。支柱柵に発展する以前、ノリは竹笹やトウジイの細い枝で作ったヒビで自然繁殖した。この名残からか支柱柵にも応用された。
三つ目はトウジイの枝を、通称シッパと呼んだ柴漬け漁用に用いた。葉が付いたまま枝を伐採して、笹竹やスダジイやほかの樫類の枝と共に荒縄で根元部分をきつく縛り、干潟の澪(みお)筋に仕掛けた。晩春から初秋にかけての漁で、このシッパにウナギやイシガニ、ギンポなどが入った。主な漁獲はシバエビとギンポだった。豊富に漁獲された。
またトウジイを屋敷の周りに植栽して家を強風や火事の延焼から守る生垣にした。トウジイは伐採しても主幹を残しておけば、主幹の根元から毎年、新芽が出て3~5年もすると太さ3~5㌢程度に生育した。この育ちの良さが重宝された。
干潟の埋め立てで漁業を廃業する漁家が相次ぎ、屋敷回りの水田も埋め立て造成され、漁業・農業用の用途がなくなって、トウジイを生垣にした屋敷林はほとんどの集落で姿を消した。

姿を消す屋敷林


トウジイの屋敷林が唯一残っているのは小櫃川下流域の河口域右岸の木更津市金田、牛込地区、河口域左岸の久津間、江川地区のところどころにあるだけ。川崎市方面から東京湾横断道路を渡ると、料金所を過ぎてすぎ右手に久津間地区の古い集落がある。江戸時代からの幅員の狭い道路沿いに民家があり、この民家の屋敷林にトウジが残るところもある。内房の原風景として文化財的な価値があるが、代替わりとともにトウジイなどの屋敷林を伐採する家々が多くなった。
屋敷林といえば、富山県砺波(となみ)地域の農村集落にスギの屋敷林がある。スギだけでなく、ヒノキを植栽する家もある。防雪、防風だけでなく、スギやヒノキが150年、200年もすると太く大きく育って建築用材となった。トウジ、樫類は建築用材に不向きな雑木で、せいぜい田畑を耕す鍬(くわ)などの柄(え)に使われた。
トウジイは正式名称は「マテバシイ」といい椎(シイ)の木の仲間。内房ではイを省略して単に「トウジ」と呼ばれた。ジイは「椎」に由来。トウは 「唐」の意で古代中国から渡来した樹木とされた。この意味での「トウ」は紅葉するカエデの一種「トウカエデ」の「トウ」と同じ。「唐」は「大きい」と言う意味があるそうで、トウジイのドングリがスダジイなどシイのドングリと比べると格段に大きいことから「唐」がついた可能性がある。

マテバシイ


「トウジイ」は正式名称「マテバシイ」。マテバシイの由来として、「マテ」が馬を切る刃を言い現わし、マテバシイの葉が「マテ」の形状に似通っていたことから「馬刃葉」(マテバ)の「椎」と名付けられたという。マテバシイの葉が、干潟に生息する食用のマテガイの細長い長方形の形状に似ているからという説もあるが、細長いマテガイとやや横広で楕円形のマテバシイの葉はあまりに形状が違い過ぎる。
マテバシイは外房の大房岬の台地上にも多く繁殖している。房総半島の自然樹林はほとんど常緑広葉樹で樫類と椎類が大半を占め、たいがい入り混じっている。大房岬のマテバシイ樹林は、内房の人から「ノリのヒビ用に使うので」と頼まれて植林したのが増えたといわれる。
本来、高木で伸びるに任せれば樹高は13~15㍍の高さにまでなるとされている。しかし、農漁業用の資材としてほとんどが伐採され、根元から伸びる新芽も太さ3、4㌢になると資材用に伐採されるため、ほとんどは樹高3~5㍍程度。

東寺の老木


トウジイといえば京都の東寺(教王護国寺)の西院・御影堂の裏手、毘沙門(びしゃもん)堂のわきにトウジイの古木がある。ざっと見で胸高直径40~50㌢ぐらい。朽ちて空洞化した箇所の大部分が崩れ、樹皮だけが残って生きているような老木だ。樹齢は不明だが、少なくとも江戸時代半ばごろから生き続けているとみていい。
「東寺」の音読みが「トウジ」なので、しゃれっ気のある僧侶が寺名にちなんで植えたのか、その先代の「トウジ」があって、その子孫を大事んしてきたのかもしれない。御影堂は空海(弘法大師)が平安時代に寝起きした場所で国宝。空海自らが刻み身辺に置いたとされる念持物(ねんじぶつ)の不動明王(国宝)や空海の座像などが安置されている。
毎日午前6時から1時間にわたって、東寺の僧侶が交代で信者らと一緒にお経をあげる朝の勤行(ごんぎょう)があり、空海に大盛のご飯やお茶などを捧げる儀式が行われている。京都の由緒ある古い社寺で東寺以外にトウジイの老木をみたことがなく、御影堂と同じぐらいの価値がある国宝級の樹木だと思っている。ちなみに御影堂に入ってすぐ右手にアカガシ系のツクバネガシの古木が健在だ。京都市の「下京区民の木」に選定されているが、それ以上の価値ある樹木だと思っている。(一照)

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