上賀茂神社の神山湧水
水の神様
上賀茂神社は京都市北区上賀茂本山339にある。境内の拝殿手前左手に御手洗川、拝殿前を御物忌川、両川が合流してナラの小川と細流が社域を流れるのがすがすがしい。下鴨神社の社域「糺の森」に奈良の小川、瀬見の小川、泉川と細流が流れるのと同じように豊かな水の恵みがある。
上賀茂神社の正式名は賀茂別雷神社。名称の通り賀茂別雷命が主祭神。雷そのものを祀るとみていい。雷は雨水をもたらす五穀豊穣の神、特に水稲の豊作をもたらす水の神様だ。下鴨神社と密接不可分の関係にあり、略称して上加茂神社を上社、下鴨神社を下社と呼ぶ。
賀茂別雷命は玉依媛(下鴨神社、上賀茂の片岡社の祭神)の子ども。玉依媛の父親は賀茂建角身命(下鴨神社、御蔭神社の主祭神)。ある時、雷命は「父親はだれか」と問われて「天に昇った」とされ、それで雷がついた。
尊い雷
古代、京の都では雷は神威そのものだった。落雷があれば命が奪われ、家なども焼かれた。雷は怖い神だが、同時に水をもたらす尊い存在だった。だから、神威が高かった。菅原道真も怖い神・雷公とあがめられた。
雷、雷雲、稲妻といえば、しめ縄飾りの紙垂(しで)。紙垂はもともと稲妻を表現したものとされる。奴隷制だった中央集権国家では、農民・百姓の身分は農奴で稲作の担い手として国の宝、百姓(おおみたから)と呼ばれた。中央集権の国家では、古くからある神社が種籾を配る場所だったのではと推察されている。種籾を手にした百姓(おおみたから)たちは紙垂で飾ったしめ縄の社殿に向かい、水の恵みと豊作を祈願した。
また、紙垂は世俗と聖界の境目、彼岸と此岸の境界を区切る目印に飾られた。荒縄などの紙垂をつって囲った線は結界だった。その線の張られた場所、地域は聖域で、身を清めたり、頭を下げて敬意を表して入るのが習わしだった。
社殿の裏、北側に広大な森が広がる。山や森は水を涵養する。社殿に向かって約2㌔離れた左手、北北西に神体山の神山(こうやま、高さ301㍍)があり、右手にはもっこりした丸山(高さ約150㍍)がある。いずれも禁足地だ。古代、狩猟が行われたが京が都になって嵯峨天皇の時から狩猟禁止となった。現在の社域は23万坪、759000平方㍍。一部が接収されて実質は約69万平方㍍(㌶)とされている。
第二次大戦直後、日本に勝利した連合国軍は「軍人のレクリエーション施設に」と丸山の京都大学所有地を含めたところにゴルフ場を計画し、社域の一部が接収された。それが名門コースとされる現在の「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース」。上賀茂神社から北東に約800㍍離れた摂社・大田神社の北側にある「小池」を含むコースで、接収時に神社は猛反対した。しかし、当時の府知事が建設に前向きで神社は押し切られてしまったという。
弥生時代の創祀
社史や社伝によると、弥生時代の紀元前580~660年代、神武天皇のころの創祀(そうし)。奈良時代、天武天皇のころの677年に神宮が造営されたという。
賀茂川の流れを引き込んだ分流の御手洗川が社殿の右手を流れる。丸山(標高150㍍)を源流とし片岡社の前を流れ、反橋の「玉橋」(国指定の重要文化財)をくぐる御物忌川(おものいがわ)が、社殿の手前でV字型のように御手洗川と合流する。Yの字となり、下流は「ナラの小川」となる。
ナラの小川は4月に「曲水の宴」が催される渉渓園を流れ、社域を出て沢田川と明神川に分かれる。明神川の流水は川沿いにある社家の庭に引き込まれ、社家の人たちは神社に出向く際、明神川の流水を浴びて禊(みそぎ)、潔斎をする。
ナラの小川
御手洗川と御物忌川が合流したV字型の結節点わきに「神山湧水」と名付けた手水場がある。かつては合流した川水を手水場に利用していたが、飲用できるように、と地下30㍍から地下水をくみ上げるようにした。2007年に完成した。手水場には季節の花が浮かべられて彩を添える。
井戸水は太い孟宗竹から細い竹の水管6カ所から水が流れ出している。両手にくんで飲むと柔らかくてうまい。賀茂川の伏流水に森がはぐくんだ地下水が合わさっているのだから、うまく感じるのは当然だ。湧水でいれたコーヒー「煎」はホット、アイスとも1杯400円で社務所わき売店で販売されている。(一照)