雨音ノスタルジー【掌編小説】
突然の雨に、思わず今は閉じてしまった駄菓子屋の店先に逃げ込んだ。懐かしい軒先にかかる赤と黄色のテント屋根に雨が打ちつけて、軽快でリズミカルな音をたてる。
「少し雨宿りをしていこうか。」
髪から滴る水滴を拭いながら、慎二が言う。約束の時間に遅れそうだから、どうにかならないかと一生懸命考えるけれど、なんど考えてもこの辺りには傘を買える店はない。
「ごめんね、せっかく来てもらったのに。」
「いいんだよ。ここなら街も見渡せるし。
きっと、すぐに止むよ。」
私の故郷である、海に面した坂の街。
中心街から坂を昇った上の方に、私の実家がある。
小さな頃に通ったこの駄菓子屋は、その坂の中腹くらい。目下には曇った空と灰色の海、そして私が高校まで過ごした街が、雨の中佇む様子が見渡せる。
私たちは、もうすぐ結婚する。
今日は私の両親への挨拶のために、二人でこの故郷へと戻ってきたのだ。
「ごめん、電話だ。」
電話の着信音がして、慎二がズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。私に申し訳なさそうな顔をして、少し私から距離をとってそれを耳に当てた。
私は店の軒先から、少しだけ顔を出して空を見上げる。やっぱり空は灰色の雲で覆われていて、降り始めより雨足は弱まったものの、まだもう少し降りそうな空模様をしていた。相変わらず雨は、ティン、トン、タンとテント屋根をリズミカルに鳴らして、その音が胸の奥のノスタルジーを掻き立てる。
『このまま、走って帰ろうや。』
目を瞑ると、懐かしい声が聞こえた気がした。
あれは高校生の頃だ。私は一つ上の野球部の先輩と付き合っていた。制服の白いシャツに練習で日に焼けた肌、夏が良く似合う、私の初恋の人。彼の部活が久しぶりに早く終わって、うちまで送ってくれることになった。あの日もこうやって突然の雨に見舞われて、今日と同じようにこの店先へと逃げ込んだのだった。
そのまま、しばらく軒先で彼と話をしていると、雨が弱くなって少しだけ空が明るくなった。そして「今だ、走って帰ろう。」と彼は、私の手を引いてそのまま駆け出したのだった。
夏が近づく蒸し暑い日に、肌を濡らす冷たい雨は意外にも気持ちが良くて、たまに様子を伺うように後ろを向く彼の笑顔になんだか胸がどきどきとした。
繋がれたままのその手の温かさを、私は今も忘れられない。
「待たせてごめん。」
慎二が電話を切って、私の隣に立つ。いつの間にか雨音は小さくなっていて、私は過去から現在へと戻る。
「もう、止みそうだ。」
空を見上げるとどんどん灰色の雲が流れて、いつのまにか所々に青空が覗き始めていた。雨上がりの匂いに、海の香りが混ざる。割れた雲から差し込む陽の光に照らされる街並みと、きらきらと輝く波がとても綺麗に見えた。
「いい街だね。」
「ありがとう。」
きっと思い出補正もあるのだろう。あの初恋の思い出は、どこを切り取ってもあの海のように輝いていて、私の記憶から消えてはくれない。この街に帰ってくると、ふとした瞬間に私はあの恋へとタイムスリップする。
慎二が照れくさそうに微笑んで、私の手を握った。
その手は温かく、そしてほんの少しだけぎこちなく固い。
「行こうか、奈緒の家へ。
お父さん、お母さんが待ってる。」
どんなに願っても、あの時には戻れない。今の私の一部となっている思い出たちは、きっともう消えることもないのだろう。
それでも、私は前を向く。